バス・タイム
「これは……」
「スガタも早く入りなよ。気持ちいいよ」
乳白色の湯に浸かりながら、気持ちよさそうに目を細めるタクト。その姿に小さく溜め息をつきながら笑った。
週末の夜。いつものように泊りにきたタクトをスガタもいつものように苦笑一つで迎えた。夕食を食べた後、一緒に入浴するのもいつものことだったが、今日は少しだけ違った。
湯船に張られた湯は白く濁り、湯気はわずかに花の匂いに彩られている。
「これは一体どうしたんだ?」
湯船に入りながら尋ねれば、差し向かいのタクトはうっそりと細めていた目をあけた。
「昨日、ミセス・ワタナベに入浴剤貰ったんだ」
「ミセス・ワタナベに?」
「パリから送られてきたから、良ろしかったらどうぞって。小分けになったのを二袋。さすがに寮じゃできないけど、スガタの家ならお風呂広いし、温泉みたいになるかなって」
夕飯のときタイガーさんたちに頼んでおいたんだ、と笑う。
「びっくりした?」
「ああ」
そう答えれば、作戦成功、と猫目がきゅぅと弧を描いた。どうやら自分を驚かせたかったらしい。そう言えば夕食のときの彼女達の様子は普段よりも楽しげだった。これが理由かと思い返し、知らず笑みが深まる。
湯を手で掬ってみれば、いつもよりとろりとしているようだ。指の隙間をやわらかく流れていく。花の匂いはささやかで、湯に浸かっていても時おり鼻をくすぐる程度だ。
品の良い香りに、この入浴剤も良いものだとうかがわせる。あのミセス・ワタナベが寄こしたものが、良いもので無いはずはないのだけれど。
「二つともワコにあげようかなぁ、と思ったんだけど、どうせ二袋あるんだから一つはスガタと一緒に使ってみようと思って。明日の朝になればワコも来るだろうし、その時にもう一つはあげるつもり」
確かに明日の朝にはワコが訪ねて来るだろう。そして、おそらくこの入浴剤は喜ばれるだろう。花の匂いのする入浴剤という可愛らしいものは、彼女の好みにぴったりとあてはまる。
けれども、いささか面白くない。純粋に自分と楽しもうと思ってくれているのだろう。しかし、何となくワコに渡す前の試しに思えてしまうのは自分の心が捻くれているからか。「良いものか確認してから渡すってことか?」
意地悪で尋ねてみれば、案の定むっとされた。唇は不満げに尖っている。
「そんなわけないだろ。ただスガタと入りたかっただけだよ」
「そうか」
「あ、何その顔。信じてないな」
えいっ、と手で作った水鉄砲を撃たれた。手で防ぐことも避けることもできず、顔面に掛かる。目鼻に入らなかったのはせめてもの救いか。
「……やったな」
「スガタが悪い」
すっと目を細めれば、ふいっと顔を背けられた。
「へぇ、そう」
そんな態度をとるならばこちらにも考えがある。
「うわっ」
「目には目を、ってね」
水鉄砲を射ち、にこやかに笑ってみせれば、ごしごしと目を擦りながら恨めしそうに睨まれた。まるで猫が威嚇しているような表情。
「うーっ、目に入った」
「先にやったのはそっちだろう?」
「スガタが信じてくれなかったのが悪い」
がんとして譲らない口ぶりに、知らず気分が上昇する。こんな風でしか、彼の中の自分の位置を確認することができない。
信じてもらえないから、怒り、譲らず、拗ねる。
それを嬉しいと思ってしまう自分は、どこの小学生だと内心苦笑する。許婚である彼女にすら、こんな想いは抱いたことはないのに。
「分かった。僕が悪かった。だからもうやめてくれ」
両手を挙げれば、こちらに狙いを定めていたタクトの手が湯に沈む。分かってくれればいいのだと、湯船の縁に肘をかけて偉そうに反り返られた。気位の高い猫を相手にしている気分だ。ひとつひとつの駆け引きが面白い。
「ああ、でも、本当にいいやつ貰ったな。良い匂いもするし、お湯の肌触りも気持ちいいし」
うっとりと湯の心地良さに浸るタクト。そのさまは艶めいていて、こくりと咽が動く。
毛先から雫が滴り、ほんのりと朱を帯びた肌に落ちる。
湯の白さが火照った肌を一層鮮やかに映えさせ、。その肌に張り付く濡れた髪は模様のように肌を飾る。
さきほど湯が目に入ったせいでその赤眼は潤み、ひどく蟲惑的で、吸い寄せられる。
「まだ目、痛むか?」
腕を伸ばし、一気に膝を進めて距離をつめる。身体の動きに合わせて湯が波立つ。
触れた場所は目の下。薄い皮膚はやわらかく、しっとりと指に吸い付く。
タクトが瞬くたびに動くので、まるで小さな心臓に触れているかのような感触がする。
「大丈夫、もう痛くないよ」
「そうか」
そっと指で擦ればタクトはくすぐったそうに笑った。触れられることを嫌がってはいない。そのことにうっそりと唇の端を上げる。
ここまで、タクトに触れることを不自然と思われなくなるまで、苦心した。
普段一緒に過ごすなかで距離を縮めていった。
動物を慣れさせるように、少しずつ。
焦らず。
ゆっくりと。
触れられることに、安堵とわずかな羞恥を感じるまで。
「くすぐったいよ、スガタ」
この笑顔を見るたびに、よく我慢したと自分を褒めたくなる。
八の字になった眉は困ったようでいて、どこか嬉しそうで。
くすぐったいとは言っても止めろとは言わない唇は、はにかんでいる。
湯の熱さだけではなく赤くなった頬。いつからか、触れるたびに朱を帯びるようになったその頬を見るたびに、縮まった距離を噛みしめた。
「タクト、顔が赤い」
「ちょっとのぼせたかも」
指をそのまま頬に滑らせれば、指につられるように首を傾げる。指に戯れる猫を連想させる愛らしい仕草に目を細めた。
「たしかに、熱いな」
耐え忍び、結果を得る。それは日本人の美徳だそうだが、それ以上を望むのは人間としての業だろう。我慢は大切だが、手を伸ばさなければ欲しいものは手に入らない。
空いている手でタクトの腕を掴み、引き寄せる。湯が大きく波打ち、ぱしゃりと跳ねる音がした。
「スガタッ!?」
前のめりに倒れてくるその身体を受け止めて、首筋に額を乗せた。花の匂いが深く香り立つのは、熱い体温に暖められたせいか。
「のぼせたのか? 気持ち悪い? 大丈夫?」
心配そうな声。不安げに頭と腕に添えられた手のぬくもりに小さく笑う。
そろそろ、我慢を止める時だ。
「ああ、大丈夫だ」
肩口で囁けば、くすぐったいのかその身体が震える。偶然をよそおって唇をその肌に掠めると、ひくりと双肩が上がった。
「スガタ……」
視線を上げれば、タクトは心底困った表情を浮かべている。けれども、こちらの身体を引き離そうとも、触れている手を離そうともしない。
どうやら、分はこちらにあるようだ。
「なぁ、タクト」
低く囁けば、吐息が肌にあたるのに反応して、湯の中の膝がわずかに動く。水面下の動きにも水面は反応してゆるく波立つ。
「な、に?」
「好きだ」
首筋をたどり、耳元に言葉を注ぎ込む。その耳朶は赤く、軽く唇で触れれば、熱い。
「タクトは? 僕のこと嫌い?」
決して嫌いとは言えないことを見越しての質問は、我ながら意地が悪い。
「スガタも早く入りなよ。気持ちいいよ」
乳白色の湯に浸かりながら、気持ちよさそうに目を細めるタクト。その姿に小さく溜め息をつきながら笑った。
週末の夜。いつものように泊りにきたタクトをスガタもいつものように苦笑一つで迎えた。夕食を食べた後、一緒に入浴するのもいつものことだったが、今日は少しだけ違った。
湯船に張られた湯は白く濁り、湯気はわずかに花の匂いに彩られている。
「これは一体どうしたんだ?」
湯船に入りながら尋ねれば、差し向かいのタクトはうっそりと細めていた目をあけた。
「昨日、ミセス・ワタナベに入浴剤貰ったんだ」
「ミセス・ワタナベに?」
「パリから送られてきたから、良ろしかったらどうぞって。小分けになったのを二袋。さすがに寮じゃできないけど、スガタの家ならお風呂広いし、温泉みたいになるかなって」
夕飯のときタイガーさんたちに頼んでおいたんだ、と笑う。
「びっくりした?」
「ああ」
そう答えれば、作戦成功、と猫目がきゅぅと弧を描いた。どうやら自分を驚かせたかったらしい。そう言えば夕食のときの彼女達の様子は普段よりも楽しげだった。これが理由かと思い返し、知らず笑みが深まる。
湯を手で掬ってみれば、いつもよりとろりとしているようだ。指の隙間をやわらかく流れていく。花の匂いはささやかで、湯に浸かっていても時おり鼻をくすぐる程度だ。
品の良い香りに、この入浴剤も良いものだとうかがわせる。あのミセス・ワタナベが寄こしたものが、良いもので無いはずはないのだけれど。
「二つともワコにあげようかなぁ、と思ったんだけど、どうせ二袋あるんだから一つはスガタと一緒に使ってみようと思って。明日の朝になればワコも来るだろうし、その時にもう一つはあげるつもり」
確かに明日の朝にはワコが訪ねて来るだろう。そして、おそらくこの入浴剤は喜ばれるだろう。花の匂いのする入浴剤という可愛らしいものは、彼女の好みにぴったりとあてはまる。
けれども、いささか面白くない。純粋に自分と楽しもうと思ってくれているのだろう。しかし、何となくワコに渡す前の試しに思えてしまうのは自分の心が捻くれているからか。「良いものか確認してから渡すってことか?」
意地悪で尋ねてみれば、案の定むっとされた。唇は不満げに尖っている。
「そんなわけないだろ。ただスガタと入りたかっただけだよ」
「そうか」
「あ、何その顔。信じてないな」
えいっ、と手で作った水鉄砲を撃たれた。手で防ぐことも避けることもできず、顔面に掛かる。目鼻に入らなかったのはせめてもの救いか。
「……やったな」
「スガタが悪い」
すっと目を細めれば、ふいっと顔を背けられた。
「へぇ、そう」
そんな態度をとるならばこちらにも考えがある。
「うわっ」
「目には目を、ってね」
水鉄砲を射ち、にこやかに笑ってみせれば、ごしごしと目を擦りながら恨めしそうに睨まれた。まるで猫が威嚇しているような表情。
「うーっ、目に入った」
「先にやったのはそっちだろう?」
「スガタが信じてくれなかったのが悪い」
がんとして譲らない口ぶりに、知らず気分が上昇する。こんな風でしか、彼の中の自分の位置を確認することができない。
信じてもらえないから、怒り、譲らず、拗ねる。
それを嬉しいと思ってしまう自分は、どこの小学生だと内心苦笑する。許婚である彼女にすら、こんな想いは抱いたことはないのに。
「分かった。僕が悪かった。だからもうやめてくれ」
両手を挙げれば、こちらに狙いを定めていたタクトの手が湯に沈む。分かってくれればいいのだと、湯船の縁に肘をかけて偉そうに反り返られた。気位の高い猫を相手にしている気分だ。ひとつひとつの駆け引きが面白い。
「ああ、でも、本当にいいやつ貰ったな。良い匂いもするし、お湯の肌触りも気持ちいいし」
うっとりと湯の心地良さに浸るタクト。そのさまは艶めいていて、こくりと咽が動く。
毛先から雫が滴り、ほんのりと朱を帯びた肌に落ちる。
湯の白さが火照った肌を一層鮮やかに映えさせ、。その肌に張り付く濡れた髪は模様のように肌を飾る。
さきほど湯が目に入ったせいでその赤眼は潤み、ひどく蟲惑的で、吸い寄せられる。
「まだ目、痛むか?」
腕を伸ばし、一気に膝を進めて距離をつめる。身体の動きに合わせて湯が波立つ。
触れた場所は目の下。薄い皮膚はやわらかく、しっとりと指に吸い付く。
タクトが瞬くたびに動くので、まるで小さな心臓に触れているかのような感触がする。
「大丈夫、もう痛くないよ」
「そうか」
そっと指で擦ればタクトはくすぐったそうに笑った。触れられることを嫌がってはいない。そのことにうっそりと唇の端を上げる。
ここまで、タクトに触れることを不自然と思われなくなるまで、苦心した。
普段一緒に過ごすなかで距離を縮めていった。
動物を慣れさせるように、少しずつ。
焦らず。
ゆっくりと。
触れられることに、安堵とわずかな羞恥を感じるまで。
「くすぐったいよ、スガタ」
この笑顔を見るたびに、よく我慢したと自分を褒めたくなる。
八の字になった眉は困ったようでいて、どこか嬉しそうで。
くすぐったいとは言っても止めろとは言わない唇は、はにかんでいる。
湯の熱さだけではなく赤くなった頬。いつからか、触れるたびに朱を帯びるようになったその頬を見るたびに、縮まった距離を噛みしめた。
「タクト、顔が赤い」
「ちょっとのぼせたかも」
指をそのまま頬に滑らせれば、指につられるように首を傾げる。指に戯れる猫を連想させる愛らしい仕草に目を細めた。
「たしかに、熱いな」
耐え忍び、結果を得る。それは日本人の美徳だそうだが、それ以上を望むのは人間としての業だろう。我慢は大切だが、手を伸ばさなければ欲しいものは手に入らない。
空いている手でタクトの腕を掴み、引き寄せる。湯が大きく波打ち、ぱしゃりと跳ねる音がした。
「スガタッ!?」
前のめりに倒れてくるその身体を受け止めて、首筋に額を乗せた。花の匂いが深く香り立つのは、熱い体温に暖められたせいか。
「のぼせたのか? 気持ち悪い? 大丈夫?」
心配そうな声。不安げに頭と腕に添えられた手のぬくもりに小さく笑う。
そろそろ、我慢を止める時だ。
「ああ、大丈夫だ」
肩口で囁けば、くすぐったいのかその身体が震える。偶然をよそおって唇をその肌に掠めると、ひくりと双肩が上がった。
「スガタ……」
視線を上げれば、タクトは心底困った表情を浮かべている。けれども、こちらの身体を引き離そうとも、触れている手を離そうともしない。
どうやら、分はこちらにあるようだ。
「なぁ、タクト」
低く囁けば、吐息が肌にあたるのに反応して、湯の中の膝がわずかに動く。水面下の動きにも水面は反応してゆるく波立つ。
「な、に?」
「好きだ」
首筋をたどり、耳元に言葉を注ぎ込む。その耳朶は赤く、軽く唇で触れれば、熱い。
「タクトは? 僕のこと嫌い?」
決して嫌いとは言えないことを見越しての質問は、我ながら意地が悪い。