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乞えど悔やめど

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封を切って、茶封筒の中身を確認する。九十七、九十八、九十九、百ユーロ。ちょうどある。くしゃりと封筒を潰してコートのポケットにひそませた。きょろきょろと辺りにひとの影がないかを見まわしながら、ルートヴィッヒは静かに路地裏の細い隙間に体を滑らせた。黒い背中が夜闇にまじった。

ふう、と吐きだした息が空に溶けて白く上ってゆく。路地裏を抜けて、内心少し慌てて駆け出した。時計の針が十二に重なろうとしている。その前には家につかねばならない。兄はきっと今日も待っている。寝ていてくれてかまわない。言っても、そのひとはいつも笑っていた。お前が遅くまで仕事してるのに、俺ひとり寝てられるかと。そう髪を撫でる骨ばった左手は、少し小さくなった。毎日のように遅いルートヴィッヒのために、そのひとのまぶたに隈が浮くのが増えた。そうして寝不足のために、そのひとは最近少し、痩せた。
ちらと時計を見やる。十一時五十分、最近の兄の眠る一時間前だ。裏道を抜けて、ようやく彼は家の前である。ドアを開ける前に、ふとコートの袖に鼻を近づけた。匂いが残っていまいかと。ルートヴィッヒとは別の体臭や、汗の匂い、独特の栗のにおい。そのすべてが残っていないことを確認していく。兄はめざとい。少しの変化にもすぐに気付く、そういうひとだった。ので、ルートヴィッヒは警戒する。兄に隠しきれた嘘がないことを思い出しながら、それでも一段と気を使う。
つめたい空気を一息すって、ルートヴィッヒはそろりと家の鍵をあけた。ただいま。小さく呟く。少し遅れて、遠くの方で声がした。おかえり。そういってリビングのドアの奥、その扉を開けて、そのひとがあらわれる。おかえりヴェスト、疲れたろ、お疲れ様。少し灰色がかった雪のような白い髪が美しい、とおもった。隈の浮いた目が細められて、おだやかに笑っている。白い肌に映える隈がいやに不健康そうである。ルートヴィッヒは見ていられないようすで目を伏せた。顔色は浮かばれない。その奥で兄の待つ廊下をゆく。というのに兄はただおだやかに笑って、髪を撫でようとこちらへ手を伸ばす。おいおい顔色悪いぜ、撫でてやるからこっちこい!や、やめてくれ、いらない。その手を逃れるような形で、ルートヴィッヒはあわてて自室へ戻った。鞄とコートをベッドのほうにわっと投げる。そうしてドアをしめたところで、ようやくふうとひといき吐いた。
冬の風に冷たくかわいたくちびるが、かすかにふるえている。反面に目頭はどんどん熱をはらむ。眼底に水分がたまってゆくのがわかる。眼底から角膜の方にかけて、どんどん水分に浸される。そうしてとうとうこぼれそうになって、強くまぶたをおさえた。指先すら震えていた。おそろしい。そのひとの目に見えるやさしさが。衰えが。そういう兄をあざむいている自分が。声をあげて泣きたいのをぐっとこらえる。喉から空気がうまく漏れず、少し苦しい。


好きだった。兄としてではなくて、国としてではなくて、ひとりのひととして、思慕していた。とがった喉仏がいちど、ひくりと上下する。いよいよ力を奪われて、ベッドに倒れこんだ。ひたひたと眼底にたまっていた水分が、堰を切ってあふれ出す。自分がもっと小さかったら、この涙をぬぐうのはたぶん、そのひとであった。大丈夫だぞルッツ、兄さんが一緒にいるからな。そういう声が降ってくるはずで、そして額にはやわいキスをされるはずだった。兄さん、ギルベルト兄さん。枕に押し当てたくちびるが、そういう形をえがいた。彼は兄としてのギルベルトを今も望みたいような、けれどもそうではない複雑なおもいをはらんでいる。欲しいのは額へのキスではなく、慈悲を含んだてのひらでもない。

喉でつかえた声が、外気のほうへ漏れることはなかった。かわりにおぼつかない身体がぶるぶると震える。そうして脳裏はそのひとの影ばかりをえがいていた。そのひとの骨ばった手の感触、繊細に銀にゆれるまつげ、優しく自分を見つめる切れ長の鮮紅の瞳、薄いくちびるから見え隠れするすらとした犬歯、細く長い指の関節の具合。幾度も掴み損ねたそのひとのすべて。生涯得ることのできぬであろうそのひとのすべて。すべてが愛おしかった。そのひとからうけとめることができるのは恐らく弟に対する愛だけだ、それさえも承知の上で。
そういうことを考えている間にどれほどの涙がこぼれたか。脈はひどくはやく、呼吸は浅い。小さく鼻をすすって、シーツをにぎりしめた。くしゃりとゆるい皺が寄る。皺をなぞるようにシーツの上に指を這わせた。すき、すきだ、兄さん。くちびるは力なく枕をなぞる。呼吸さえ、さえぎられてしまう。そうして薄い布は涙を吸って、ひどく濡れた。
ようやく頬に濡れた涙がかわいた頃である。乱れた息を穏やかに整える。目は少しうつろのままであった。ルートヴィッヒは落ちるようにベッドから降りた。足取りはまだおぼつかないでいる。捨て置いた鞄と、コートをクローゼットにかける。ふと黒い合革の鞄から香水の、柑橘の爽やかな香りが漂った。兄に感付かれてはならない。きっと兄は悲しむに違いない。もう純潔ではない自分を軽蔑するやもしれない。しかしながら、この際、もはやどうでもよい気さえしていた。皺の寄ったコートのポケットの中で潰れた封筒を本棚の間に挟む。また会おう、封筒を手渡してそう笑った男の顔を不意に思い出す。兄に似た男であった。銀のまじった髪、瞳の色は似通わないが、体格や声、手の大きさが脳裏に兄をかすめさせる、そういう男であった。自分もわざとそういう男を、選んで落ちあっていた。兄に似た男に揺すぶられるのは心地よかった。兄に愛されているようで、興奮さえした。欲しかったのは金などではない。兄の、そのひとの、面影だ。
静かに部屋を出て階段に足を滑らせ、兄の目をかいくぐって、そのまま風呂場へとなだれ込む。兄の匂いのたゆたう廊下。喉の奥のほうがまた少し震えて、ルートヴィッヒはそれを必死におさえこんだ。泣いてもむなしさが積もってゆくばかりだ。
シャワーのコックをひねる。頭から水をかぶって目頭のあつさをごまかしてしまう。風呂は済ませてきた。ので、かきだすものさえない。ルートヴィッヒはおもいがけず苦笑いを浮かべた。もうなにもかも随分と薄汚くなってしまった。いつのまに自分はこんなふうに落ちぶれたのだろう、と。シャワーの音が止む。身体がひえて、ひどく寒い。おーいヴェスト、タオルなかったろ?突然そのひとの声がちかくのほうでしたかと思うと、ばたばたとバスルームに足音が近づいてくる。どんどん身体がこわばってゆく。返事はしなかった。声が出なかったので。
またたく間にばたんとドアが開く。すまねえなヴェスト、タオルの替え忘れてちまってよ。鋭い犬歯を見せて、そのひとが笑う。薄い隈の浮いた下まぶた。…ああやはりこのひとなのだ。そのひとを取り巻く空気、昔よりずっとやわくなった表情や節くれだった指先。あらゆるものが空似の男とは違う。先のことが尾を引いてまた目頭が熱をはらむ。タオルを受け取る手がおぼつかない。…ダンケ、兄さん。声がうわずってしまう。おう、少し眠そうに笑って、何事もなかったようにそのひとはバスルームを後にした。
作品名:乞えど悔やめど 作家名:高橋