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ベクトル浸食

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例えば眠りを甘受したとして、それは一種の休息行動のひとつでもあるけれどそれと同時に必然に行われる現実逃避の手段の一つでもある。誰だって夢を見る。
深層意識だとかいう話もあるが、正直帝人には夢などに関する難しいことは分からない。
ただ目を瞑れば、夢を見る。それだけの話で、彼はその現実逃避をしている間に全てが終わればいいとは願っていた。

けれどそんなことは正に夢のような話。時間は流れるが、状況は何も変わりはしない。悪化もしない代わりに良くもならない。ただ維持をしつづけるだけだった。
嘆息も罵声も傷を与えても、その傷をものともしないのなら無意味なだけだ。
そしてその傷がすぐさま治ってしまうなら無駄なだけだ。

主のいない無機質な部屋で帝人は夢を見る。
穴に落ちる夢、飛ぶ夢、それら全てが希望やら絶望やら色んな物が混じり合わさって、最終的にはいつも呪詛のように響く言葉が夢と現実に入り込んで目が覚める。


もう慣れた。
もう諦めた。
抵抗は続けているがそれもいつまで持つのやら。


ぼんやりと珍しく自分で起きた帝人は瞼を開けて、まず時計を見た。
同じ速度で壊れることがない限り回り続けるそれはちょうど夕方の六時を指している。今日は早いと言っていたから、たぶんもう少しで帰ってくるのだろう。いつのまにかかけられていた掛け布団を手繰り寄せて、帝人は寒さに体を震わせた。長袖のシャツと伸縮性の高いジャージ生地のズボン一枚では寒い。特に上が。

「…さむい」

のっそりと起き上がって、布団にくるまったまま移動をする。ずるずると布団が勝手に床を掃除しているが帝人は正直どうでもよかった。床に穴がぶち開けばなあ、と穏やかに考えていた。

ピ。短い電子音が響いて、暖房がつく。暖房が完全に部屋を暖めるまで、時間が少しだけかかるので自分用にあしらえられたソファーに座って、帝人は目を閉じる。
布団を肩まで寄せる。指先が冷たい。両手で握りこんで、晩ご飯は焼き鳥が良いと渋目に晩ご飯について沈思黙考。


部屋が暖まり、そろそろ動きだそうかとした時、玄関が勢いよく開いた。その勢いが部屋に入った瞬間にそろりとした静かな動きに変わって、長身の男性が恐る恐る部屋を見渡す。帝人は小さくため息をついた。男性の顔色が変わる。心配そうな表情から、安堵、そして優しげな面差しへと。


サングラスを胸の蝶ネクタイ付近にかけて男性は、静雄は帝人、と声をかける。
帝人は露骨に嫌そうな顔…は一応やめておいて布団の中へ顔を埋めた。
だってこの人、どうしようもない大人なのだ。


「帝人?」

「………」


折原臨也ほど駄目な大人はいないと思っていたが、平和島静雄は思わぬ部分で、また違った意味でアウトな大人だった。それでいて人当たりは良いわ、怒ってない時は不器用に優しいわ。残念なイケメンである。恐らく感情のぶつけ方を知らないだけなのだろう。猪突猛進とはまた違う。


しかし、勢いでやって、怯えながらも心の底で帝人が傍にいて大変幸せなのは毎日彼が仕事からの帰宅時の派手にぶっ飛ばしそうな玄関の勢いでありありと分かる。
静雄といったら、とても嬉しそうに鍵を回し、幸福をありありと表したような表情で部屋に入ってくるのだから。


まあなんというか。
その結果五回ほど、玄関は壊れた。


「帝人…」


そろっと手が伸びてくる。何となくだけれど、たぶんそう。
触っても良いのかと迷うくせして、感情を言葉にするのが苦手なくせして、一番嫌なことだけは終わらせてくれない。それが厄介だった。

「…ただいま、帝人」

おかえりは言ってやらない。
ちらっと布団から顔を出して窺うと、しゅんとしている成人男性がいた。未成年の、それも年下のまだ高校生男子に無視をされただけでへこんでいる成人男性がそこにいた。情けない。


「帝人、今日はなお前の好きな…」

「焼き鳥」

「おお」

「ですか」

「ん。味噌だれな」


三大欲は素直だ。
性欲は食欲と直結しているらしいので、それはなしとするけれど。頭の中で誰とも知らない誰かに言い訳をした子供がひとり。
味噌だれと聞き本当に少しだけ機嫌が良くなったと見て、嬉しくなり照れくさそうに頭をかく情けない成人ひとり。


「それだけじゃなくて、あ、いや、まあ味噌だれも結構あるんだが。あとはつくねとか、野菜も食べないといけないらしいし…ちょっと待ってろな、帝人」


いそいそと皿に盛りつけるために静雄はキッチンへ急ぐ。温めたりなんだりの音がして、帝人はソファーに座ったまま再度ため息をついた。


作品名:ベクトル浸食 作家名:高良