またたびと侍
その1
その日は快晴。湖をそのまま空に貼り付けたかのような薄い青は雲ひとつなく、見事な秋晴れを示していた。
村落ではそろそろ収穫の時期である。今年は猛暑であったものの水の被害は少なく晴天が続いたため、それなりの米が取れるだろう。この間行なった灌漑がうまく機能してくれたのも要因のひとつかも知れない。
ここ最近は平和なもので、遠く戦乱があったらしいがここでは噂話程度だった。高く輪を描く鳶の姿に、空を見上げていた白石はひとりほくそ笑んで足を進めた。
草鞋が踏みしめたここは、もう少し経てば見事な紅葉に染まるのだろう。今年もそんな季節が来たのかと、手のひらのように広がる緑色のもみじを愛でていると、不意に猫の鳴き声がした。
人里に近い小さな山だ。どこからか猫が迷い込んだのかと足先は獣道へと逸れていった。
確かこっちから聞こえたような、と視界の邪魔になる枝をしならせながら辺りを見渡すと、目の前の銀杏の後ろからもう一度聞こえた。今度は確信を持ってそろりと覗き込む。
だが意外なことに、そこに居たのは猫だけではなかった。
人がひとり、この銀杏の木に背凭れていた。ぐしゃぐしゃに散った髪、この季節にしては薄過ぎる着物は黒い染みがいくつもあり、所々破かれていた。誰が見てもわかる。この黒々としたのは血の跡で、いくつも走った破れ目はどう見ても刀傷だ。組まれた足の上にはあまつさえ枯れ葉がいくつも乗っており、その人は首を折ってピクリとも動かず、何故か周りに猫が四、五匹ほど群がっていた。
その身なりから、死んでいるのかと思った。それにしても烏にたかられるならともかく死体に猫が集まるとはどういうことだと、不思議に思いつつも俺はその仏様に近寄った。
よく見れば左手に刀を一振り握り締めていた。なるほどどこかの戦から落ち延び、この山でひっそりと最期を迎えたというところだろうか。それにしても背丈が立派である。佇んでこの高さなら、もし立ち上がったのなら見上げるほどだろう。
何れにせよ、こんな大きな身体を土に埋めるのは難儀しそうだと溜息をつく。生憎今は脇差をひとつ身につけているだけだ。後で農民から鍬でも借りるかと、とりあえず俺は周りの猫たちを保護することにした。
もう少し警戒されるかと思ったのだが、野良にしては珍しくひょいと簡単に捕まる。だが、掴んだ途端暴れ始め、爪でかかれる前に手放すと、斑模様のそれは鞠のように跳ね、あろうことか仏様の足の上へ乗っかりごろんごろんと腹を見せた。
あかんやろ、と声を出しつつ猫を掴もうと手を伸ばす。だがしかしそれは不意に現れた指先に掴まれた。
驚きで身体が跳ねる。咄嗟に脇差に手が行くが、掴まれた指の先を辿って俺は息を呑んだ。
あの死体が、俺の手首を掴んでいたのである。それもしっかりと、両目を開いて。
俺は一瞬頭が真っ白になった。なにせ死んだとばかり思っていた人間が急に動き出して、無言で俺の手を掴んでいるのである。これはもしや幽霊の類かと、陽も高いのに冷たい汗が背中を伝った。
振り解きたいがありえないほどの強さで握りこまれている。半歩後ずさった俺は、精一杯の距離をとって彼を睨んだ。
「…何しようと?」
驚くことに幽霊は口を利いた。だが聞きなれない独特の抑揚に何を言われたのか直ぐ頭に入ってこない。
いや待て、と俺は冷静に過去を振り返る。昔これに似た訛りをどこかで耳にしたことがある。あれは確か、船で渡った先のこと。
そこまで考えると、ようやく俺は落ち着きを取り戻してきた。指先から伝わる温かさは確かに人肌のものである。どうやら彼は生身の人らしい。
「すまんなぁ。猫がおったから」
「猫?あぁ…」
そこでようやく彼は手を引いた。俺は素早く数歩下がり様子を窺う。侍はぼさぼさの頭をかいて、破れかぶれの懐から小枝をひとつ取り出した。
「これのせいたいね」
言うや否や、彼は棒を猫の前でひらひらと振ってみせた。途端に周りの猫たちがそれに近付いて一様にこてんと横になる。もしかして、と思うと同時に声が聞こえた。
「またたびたい。これで遊んどったら、いつん間にか寝とったと」
「寝とった!?」
意外過ぎる言葉に思わず素っ頓狂な声が出る。侍は驚いたように俺を見上げ、きょとんと瞬きをした。
「自分どう見ても死んどったやろ!」
「酷かー、俺はまだ生きちょっとよ」
「やって全然動かんかったやん!」
「あー疲れとったばってん、“死んだように”眠ちょったごたるかもね」
小さく口の端を緩められて、俺は二の句が告げずにわなわなと震えた。酷い見た目で死んでいると勘違いした俺も俺だが、なんて傍迷惑な男だ。
無駄な時間を過ごしてしまったと、俺はくるりと背を向けた。背中越しに、どこ行くと?なんて声がかかる。
不精不精見返して唇を引き結んでいると、彼は相変わらずひらひらとまたたびを揺らしながら口を開いた。
「あんた、この辺の人ね?」
「…おん」
「俺行くとこがなかとよ。匿ってくれん?」
「断る」
きっぱりとそう告げると今度こそ俺は背を向けて一歩踏み出した。
またもや背中越しに、待ちなっせとか何とか声がかかった。いい加減苛々した俺は睨みながら振り返るのだが、彼はのんびりと刀を支えにして立ち上がっていた。
ぱらぱらと枯れ葉が落ちた身体は、やはりでかい。無駄に貫禄があるその様に少々悔しさを感じるも、その顔は背丈とは裏腹に柔和に微笑んでいた。
「最近草とか根っこしか食べとらんとよ。旨い飯が食いたか」
「知ったこっちゃないわ。草でも根っこでも泥でも啜っとけばええやん」
「…あんた、顔に似合わず辛辣やね」
いつもの俺ならもちろんこんな物言いはしない。なんだろう、こいつと喋っていると無性に苛々する。彼はひょいとまたたびを投げ捨て、のそりと歩いてきた。近付くほどに見上げる顔は陽に焼け泥に塗れ、落ち武者の印象が拭えなかった。
「…素性も知らん奴に飯食わす義理もないわ」
精一杯睨みつけながらそう言うと、彼はあぁそうかとでも言いたげな顔をした。
「千歳ち言うと。彷徨っちょったらいつの間にかここにおったとよ。これもなんかの縁ばいね」
「なんやそれ結局名前しか言うとらんやないか」
怒気を隠しもせずに言い放つと、彼はうーんと唸って腕を組んだ。
「説明が難しかばってん、あんたは良いとこの出やね?さしおりどこぞのお殿様か、その将ちとこかね」
返す言葉が見つからなかったのは、ずばり図星だったからだ。厳密に言うと“殿”という肩書きは俺ではないが、実質同じようなものだった。
黙っていると、彼は勝手に話を進める。
「タダとは言わん。こう見えて腕には自信があるけん、あんた」
俺を抱えてみらんね?
そう告げられて、俺は必死に頭の中で否定の言葉を探していた。
蔵ノ介がどこぞの野侍を召抱えた、という噂はあっという間に広がり、先ほどは謙也がすぱーんと襖を開けて乗り込んで来て、俺は終始仏頂面で説明する羽目になった。
ちなみに件の侍は飯を腹いっぱい平らげた現在、湯浴み中である。そのあまりの見た目に、嫌がった千歳を無理やり引っ張り尻を蹴って入れさせた。
文机に肘を突き忌々しげに指で叩いていた俺は、ぺたぺたと聞きなれない足音に気が付き手が止まった。