番い羽
不意にもぞりと妙な感触を覚え、大谷は自分の右腕へ視線を落とした。
その視線の先で、右腕の手首のあたりが痙攣するように動く。眺めていれば、包帯の一部が下から押し上げられるように奇妙に盛り上がった。大谷は左の人差し指で、そのわずかな盛り上がりをなぞった。途端、刺激に悶えるようにしてその膨らみが跳ねる。それは無数に蠢く羽虫の舞踏だ。
大谷は無言であり、無表情である。
だがその心蔵はやけに忙しなく脈打っている。いっそその動揺を露わにしてしまえば、恐怖を喚き散らしてしまえば気が済むのかもしれなかった。しかし大谷には自分の表情を動かすことも出来ず、叫び声をあげることすら出来ない。
ただ静かに己の手首を見つめている。
意識もせずに、再び左手がその手首へ這う。己の膚を封じ込めるようにして、隙間なく巻かれた布の端を掴む。親指と人差し指で挟み、包帯をそっと持ち上げようとする――
「やめよ、」
己の声で眼が醒めた。
この日の大谷はひどく機嫌が悪かった。
常に陰気な空気を纏う男がさらに鬱々とした雰囲気を醸し出すものだから、周囲の者たちはそうと悟るといつにも増してあからさまに大谷を避けて通った。
それも珍しいことではない。
病を発症してすでに幾年も経っている。大谷自身にとってすら、己が健全な身体と、今よりはよほど澄んだ心を持っていた頃があったなどと笑えるほどに疑わしい。他者に忌避されることは大谷の常であった。そして大谷は自身に蓄積される歪みを熟知しており、さらにはそれを慈しむようにして育て上げていた。
やれ、戦は起こらぬか。そろそろ血反吐に塗れた不幸が見たいものよ。醜悪で残酷で浅ましければ尚よし哉。
大谷は眼を細めて多くの不幸を味わえる戦場を想った。そういえば、近く三河の徳川と事を構えるかもしれぬと御方二人が匂わせていたようにも思う。大谷はそれが徹底的な殲滅戦になれば良いと願った。
さすればあの男もまた、修羅の顔を見せような。
大谷はごく自然に一人の男を思い浮かべ、同時にわずかに笑みを刻んでいた。鮮やかに酷薄に戦場を駆ける男の姿を思い描く、その瞬間だけは、目覚めた時より抱えていた忌々しい鬱屈を忘れた。
だが、その大谷の夢想を破るかのような雑音が耳に届く。
「――唯でさえ病を抱えた不吉の身で、あの気質では」
「おお、あの濁った眼に映るだけで怖気が走る」
折れ曲がった回廊の向こうから聞こえる非難。それが何を指しているかは容易に知れた。
「前生にてよほどの罪業を背負うているかと思えば」
「繰り出す策も悪辣偏執、効果があるのが尚恐ろしい」
「将と言うにも些か差障りすらあろう」
そう、特に珍しいことではない。大谷は畏怖と嫌悪を等分に織り交ぜた陰言を聞きながら、口の端を切り裂くような薄い笑みを浮かべた。
誰が通るとも知れぬ歩廊の端で好き勝手に囀る者の程度などたかが知れている。むしろ厄介なのは、表には一切表さないままに己が意志を通そうと画策する者だ。
それは例えば、大谷のように。
実のない陰口を交わすだけで満足するような、相手にするにも馬鹿馬鹿しい相手だとは知れた。だがこの日の大谷はとにかく機嫌が悪かったのだ。
声は覚えた。素性も所属も割り出したならば、次の戦では殊更可愛がってやろうなァ。
喉の奥を鳴らして、最も不利な戦場の配置へと追い遣る手法を考えながら、大谷は密やかに元来た方向へ戻ろうとした。
まさかその瞬間に、次々と悲鳴があがろうとは思わなかった。
「ひ、いぅッ」
唐突な引き攣った悲鳴に続き、鈍い殴打の音が響く。
「何を……ッ、ぐ、げぇっ」
腹の底から絞り出すような苦悶の声に、何事かと訝しんだ大谷は、もう一度方向を変えて回廊を進んだ。
そして端を曲がった瞬間に広がる視界には、予想もしない光景が映った。それぞれが腹や頭や額を抑え、呻きながら地に臥す男が四人。
その中心に傲然として佇む一人の男。
地面に転がった男達に、虫けらを見る様な平然とした冷たい双眸を注ぐその男の、握りこまれた拳を見て、大谷は半ば茫然としながら問う。
「ぬしは一体何をしておるか、三成」
その視線の先で、右腕の手首のあたりが痙攣するように動く。眺めていれば、包帯の一部が下から押し上げられるように奇妙に盛り上がった。大谷は左の人差し指で、そのわずかな盛り上がりをなぞった。途端、刺激に悶えるようにしてその膨らみが跳ねる。それは無数に蠢く羽虫の舞踏だ。
大谷は無言であり、無表情である。
だがその心蔵はやけに忙しなく脈打っている。いっそその動揺を露わにしてしまえば、恐怖を喚き散らしてしまえば気が済むのかもしれなかった。しかし大谷には自分の表情を動かすことも出来ず、叫び声をあげることすら出来ない。
ただ静かに己の手首を見つめている。
意識もせずに、再び左手がその手首へ這う。己の膚を封じ込めるようにして、隙間なく巻かれた布の端を掴む。親指と人差し指で挟み、包帯をそっと持ち上げようとする――
「やめよ、」
己の声で眼が醒めた。
この日の大谷はひどく機嫌が悪かった。
常に陰気な空気を纏う男がさらに鬱々とした雰囲気を醸し出すものだから、周囲の者たちはそうと悟るといつにも増してあからさまに大谷を避けて通った。
それも珍しいことではない。
病を発症してすでに幾年も経っている。大谷自身にとってすら、己が健全な身体と、今よりはよほど澄んだ心を持っていた頃があったなどと笑えるほどに疑わしい。他者に忌避されることは大谷の常であった。そして大谷は自身に蓄積される歪みを熟知しており、さらにはそれを慈しむようにして育て上げていた。
やれ、戦は起こらぬか。そろそろ血反吐に塗れた不幸が見たいものよ。醜悪で残酷で浅ましければ尚よし哉。
大谷は眼を細めて多くの不幸を味わえる戦場を想った。そういえば、近く三河の徳川と事を構えるかもしれぬと御方二人が匂わせていたようにも思う。大谷はそれが徹底的な殲滅戦になれば良いと願った。
さすればあの男もまた、修羅の顔を見せような。
大谷はごく自然に一人の男を思い浮かべ、同時にわずかに笑みを刻んでいた。鮮やかに酷薄に戦場を駆ける男の姿を思い描く、その瞬間だけは、目覚めた時より抱えていた忌々しい鬱屈を忘れた。
だが、その大谷の夢想を破るかのような雑音が耳に届く。
「――唯でさえ病を抱えた不吉の身で、あの気質では」
「おお、あの濁った眼に映るだけで怖気が走る」
折れ曲がった回廊の向こうから聞こえる非難。それが何を指しているかは容易に知れた。
「前生にてよほどの罪業を背負うているかと思えば」
「繰り出す策も悪辣偏執、効果があるのが尚恐ろしい」
「将と言うにも些か差障りすらあろう」
そう、特に珍しいことではない。大谷は畏怖と嫌悪を等分に織り交ぜた陰言を聞きながら、口の端を切り裂くような薄い笑みを浮かべた。
誰が通るとも知れぬ歩廊の端で好き勝手に囀る者の程度などたかが知れている。むしろ厄介なのは、表には一切表さないままに己が意志を通そうと画策する者だ。
それは例えば、大谷のように。
実のない陰口を交わすだけで満足するような、相手にするにも馬鹿馬鹿しい相手だとは知れた。だがこの日の大谷はとにかく機嫌が悪かったのだ。
声は覚えた。素性も所属も割り出したならば、次の戦では殊更可愛がってやろうなァ。
喉の奥を鳴らして、最も不利な戦場の配置へと追い遣る手法を考えながら、大谷は密やかに元来た方向へ戻ろうとした。
まさかその瞬間に、次々と悲鳴があがろうとは思わなかった。
「ひ、いぅッ」
唐突な引き攣った悲鳴に続き、鈍い殴打の音が響く。
「何を……ッ、ぐ、げぇっ」
腹の底から絞り出すような苦悶の声に、何事かと訝しんだ大谷は、もう一度方向を変えて回廊を進んだ。
そして端を曲がった瞬間に広がる視界には、予想もしない光景が映った。それぞれが腹や頭や額を抑え、呻きながら地に臥す男が四人。
その中心に傲然として佇む一人の男。
地面に転がった男達に、虫けらを見る様な平然とした冷たい双眸を注ぐその男の、握りこまれた拳を見て、大谷は半ば茫然としながら問う。
「ぬしは一体何をしておるか、三成」