番い羽
「……刑部?」
不自然に動きを止めた大谷へ、三成が訝しげな眼を向ける。大谷は慌ててその手を引き戻した。包帯の下で蠢くものは、光に焼かれて暴れ出した羽虫の群れだ。無論、それが幻覚に過ぎないことは大谷とて承知している。病を得てから幾度となく、羽虫が群がり肉を食む、そういう幻視を寝ても覚めても眼にしてきた。
だが、万が一にもここに本物の禍が潜んでいたならば。
それに思い至った大谷が感じたものもまた、恐れだった。
これまでにも数度、三成に触れたことはあるのだ。今になってそれを避けようとする自分の心情を測りかね、馬鹿らしいと哂いながら、大谷はどうしてもそれが耐え難かった。首を振って三成が掴んでいた手をも払いのける。そうして自由を取り戻した大谷は、一度だけ大きく呼吸をするとすぐに普段の自分を取り繕った。
「なれば、せいぜいぬしの期待に添うとするか」
何事もなかったかのように告げる。
だが手を振り払われた三成は、さすがにその態度に違和感を覚えていた。眉を顰め、じっと大谷の顔を見つめる。そして大谷の表情が変わらないと見るや、何とは無しにその原因と思われるものに手を伸ばした。
つい先程、宙を彷徨った挙句に離れて行った指先。
それを掴み取り、大谷が振り払うよりも先に、三成は掴んだ指先に歯を立てた。
突然の事態に反応も忘れて硬直した大谷を、その指に巻かれた包帯を柔く噛みながら三成が見上げる。その眼とかち合った途端、自失から我に返った大谷は背筋を這いずる寒気に呻いた。
「何を、するか!」
叱責をして手を引こうとした大谷の手首を、捕え直して引き寄せる。三成の力に大谷が及ぶはずもなく、もう一度、今度は盛大に歯を立てて喰らいつかれた。布の下の膚までが、硬質な牙を感じ取る。大谷の背を寒くしているものは嫌悪ではなく怯えに近かった。自身が遠ざけたはずのそれに、三成が触れようとする。触れれば禍も飛散する―――
「やめよ」
制止の声は細かった。
三成は人の心の機微には疎い。他者の内心を慮るなど、滅多に出来るものではない。だが代わりに何か獣じみた嗅覚を持ち合わせていて、それが時折相手の本心を貫く。
「この手がどうした。何を厭う」
三成はおそらく、深く考えて行動しているわけではない。だが口に含んでみせるという行為は、確かに大谷の自身への忌避に対する答えであった。大谷は眼前の男が事もなげに内部へ踏み入ることに、忌々しさすら覚えて無言で腕を引く。その指先が逃げるのを留めるように、三成の舌が包帯の隙間を縫って捲りあげた。包帯越しではなく直接膚に触れた感触に、背筋を震わせた大谷は闇雲に逃げようとして、
「刑部」
三成が静かな声音で呼ぶのを聞いた。
「私から離れるな。……私を裏切るなよ」
静謐でありながら狂気を孕んだ、その言葉を違えれば四肢を切り刻まれるに違いないという声。
その意味を理解したと同時に、大谷の中から焦燥と混乱がかき消えた。それどころではなかったのだ。代わりに大谷を支配したのは、どうしようもなく湧き起こる、怒りに近い感情だった。
全身から戸惑いを振り捨てた大谷は、低い声音で三成に問う。
「……三成よ、幾度同じ答えを返せば、ぬしは我を信ずるのだ」
三成は急に様子の変わった相手へ怪訝な顔を向けながらも、即答した。
「貴様に疑う余地はない」
ただ、と。
三成はそれだけを言って、続きを言えずに黙り込んでしまった。手で捕えたままの大谷の指先をじっと見つめながら、ただ私は、と。
大谷はそっとその指を引き抜いた。どこか空ろに思いを馳せる様子の三成は、それを止めない。大谷は止められないのを良いことに、今度こそ自分の意志でその指を三成の頬に添わせた。
触れた先から禍が侵蝕するならば、してしまえ。どうせこの男はとうの昔に侵されている。
かつてはあの燦然と君臨した覇王に、そして今はその神を奪ったあの男に。
大谷は三成の知らぬうちに幾つかの策略を進めてはいるが、それが露見するような愚は犯していない。大谷は常に三成と共に在り、三成に疑惑を抱かせるような真似はしていないのだ。
ならば今更三成が大谷に疑いを向けるのは、あの男を見ればこそ。
たった一度の邂逅が、深く杭打たれた裏切りの傷を呆気なく開いて三成を狂気に突き落とし、無垢に他者を信じることを許さない。
思えば大谷はこの瞬間まで、三成の抱える憎悪を純粋に愉しんでいた。篝火のように揺らめきながら瞳の中で凝っていく憎しみの色を、愛おしんですらいたのだ。
それが果たして何を映しているのかなど考えもせずに。
――いつまでそこに潜んでおる気よ、徳川。
大谷は三成の眼を覗きこみ、そこに見つけた影へと睨み据えながら哂いかけた。そう、結局はいつまでも、三成はあの男の影を内包しながら生きている。
大谷はもう一度小さく笑い、その影に見せつけるようにして、ゆるりと三成の頬の線をなぞる。三成はふと不思議そうな眼を大谷に向けたが、それを避けはしなかった。
「そうよ……雑賀など徳川にくれてやれ。ぬしは何も案ずるな。総てを我に任せるが良い」
愛撫するような声音で囁けば、三成は当然だ、と短く答えた。
「だが、……だが、これ以上は何も奴に渡しはしない。奴の好きにはさせない」
「それが正当よ」
三成は熱を秘めた眼で大谷を見て、呪詛を放つ。
「……刑部、私は決めたのだ」
言いながら三成の伸ばした指先が、大谷の腕の付け根を突き刺すように掴む。
「奴の手足をもぎ……」
次のその手を滑らすようにして、心の臓の上を押す。
「心を削ぎ落とし、」
最後にふと伸ばされた指が、大谷の首筋を這う。大谷もまた三成の頬から首元へと掌を滑らせながら、好きにしやれと己の首を突き出してやった。
三成はかすかに口元を綻ばせ、まるであの男を眼の前にしているかのような、濡れた眼をして囁いた。
「死を刻みつけて追い詰めてやる……!」
一瞬だけ、三成はその手に力を込めた。
一瞬だけ、大谷はこのまま死んでも悪くはないと思った。
所詮は瞬きひとつの間にかき消える、幻のような感傷だ。
「そうよな」
ぬしがされたように、な。
大谷は眼を細め、眩い程の憎悪を浴びて内心で呟く。大谷が触れる三成の首筋には、包帯越しでもかすかに感じる生の証が脈打っていた。それでも大谷は時折、この男が生きていることに不思議すら覚える。
生きたまま四肢をもぎ取られ、心を刻まれ削ぎ落され、一度死んだに等しい男。
「好きにするがよい、三成。……我がなす総てもまた、義のため、ぬしのためよ」
睦言めいた言葉だ。
今更ながらにそう思い当り、大谷は微かに苦笑しながら目蓋を閉じて、後はただ指先に感じる仄かな鼓動を追い続けた。