番い羽
雑賀の里を後にしたのち、三成は荒れた心情を隠そうともしなかった。もとより三成には己を秘めるという考えがない。だが、味方であろうと己が率いる兵であろうと関係なく、眼につくもの総てを斬り伏せると言わんばかりの様子は、総大将としては常軌を逸していた。拠点へ軍を引き返させた大谷は、その途中、幾度も三成が凶刃を振るおうとするのを宥めねばならなかった。犠牲者の一人も出さないままに軍が砦へ行き着いたのは、僥倖とすら言えたろう。
それほどに、三成の抱えた憎悪は、今にも決壊し器から溢れだそうとしていた。
そして今。
ようやく兵と引き離し、軍議に使う一角へ押し込めた先で三成は、白刃を抜き放ったまま大谷へ血走った眼を向けていた。
すでに陽が落ちて数刻、薄暗がりに行燈の仄かな灯りが揺らめく中で、大谷は地に下ろした輿に座している。三成はその真正面に立って大谷を睨み据えていた。大谷はこの状況を避けようとはしたが、回避のしようがなかった。三成の眼が逃げるなと言えば、大谷はその場へ留まるしかないのだ。
膚が粟立つほどの張り詰めた空気の中、三成の唇が開く。
「遅れを取ったな、刑部」
言いながら、三成は何の前触れも迷いもなく横薙ぎに刀を振るった。一瞬の静寂の後、はらり、と大谷の喉元の包帯が捲れて落ちる。大谷は微動だにしない。曝け出された膚には傷がなく、三成の絶技の程が知れた。だが三成はその喉元へと、今度は貫くように刃を突き付ける。
「むざむざと奴に雑賀を奪われた……またひとつ、奴が新たな力を手にしたのだ!」
怒りにうち震える声は歯軋りの音と共に絞り出され、戦場にいる時と変わらぬ悪鬼の顔を大谷へ向ける。突きつけられた刃の切先の下で小さく呼吸をしながら、大谷は容易く正気を手放しかける男を陰鬱な眼で見返した。
三成は、傲慢故に大谷を責めているわけではない。ただ己の内に狂い荒れる激情を持て余し、その矛先を何処かへ向けなければ息をすることも出来ないのだ。
こうなることはわかっていた。三成があの男を眼にして常を保てるはずもない。
あの契約の音が鳴り渡った瞬間に大谷の眼が捉えたのは、もはや周囲の何をも、大谷すらも顧みずに駆けだした凶王の後ろ姿だった。ぬかったわ、と心中で唸りながら大谷もその後を追った。徳川の動きも予測していたとはいえ、まさか契約の成ったその瞬間に邂逅を果たすとは。
まだ、早い。石田軍の兵力はまだ万全とは言い難く、何より雑賀と契約した男を相手に雑賀衆の巣窟で戦を仕掛けるなど不利が過ぎる。
だが、追いついた先で、大谷は制止の声もかけずに静かに武器を構えるしかなかった。もはや、三成にはどんな言葉も意味を成さない状態であった。
大逆を犯して姿を消した男が眼前に現れ、忌々しい程変わらぬ清涼さと健やかさを保ったままに、強大な武力を「絆」という名を与えて手にして見せたのだ。
三成が瞬時に激昂するのは当然だった。
瞬間的に抜刀した三成の刃を拳の背で受け止めながら、その男は。
「三成……ッ」
絞り出すような苦しげな声音に、確かな驚愕を乗せて名を呼んだ。そして三成もまた、憎悪に濡れて極まった声で叫んだ。
「家康、……家康……ッ!」
大谷が遠くから垣間見た徳川の眼差しには、隠しきれぬ戦慄と驚愕と苦渋があった。徳川とて覚悟はしていたろう。だがその徳川が間近で見た三成の双眸を、大谷は想像する。それは迸る殺意と憎悪を黒々と混ぜて煮詰めたような、到底正気とは思えない眼であったに違いない。それに対して徳川は名を呼ばずにはいられなかった。
――いまさら何を驚くか。
大谷はその様子を見て、嘲りすら交えて罵った。
なあ、どの口がその声で名を呼んでみせる。
与えたのはぬしだ。奪ったのはぬしだ。それを知らぬはずもあるまいに、歪を極めた三成を見て苦渋の声音を捻りだす、相も変わらず勝手な男。
昏い憎悪を背に負うて、それでもぬしはぬけぬけと何事もないように笑うのであろうよ。
まったく煩わしい天陽め。
大谷は、対峙する二人を目の当たりにした瞬間に悟っていた。この先戦況がどう変わろうと、それだけは変わらぬ真実を。三成は命ある限りあの男を追い続け、振り返らぬはずのあの男は三成だけを振り返って名を呼び合うだろう。
滑稽なことだ。
それはまるで、恋着にすら似た響きを帯びているに違いない。
「……この首刎ねて気が済むのならばそれもよかろ」
大谷は、人差し指で曝け出された己の首を引っ掻いて放り投げるように言った。心底、それで構わないと思った。
三成が虚を衝かれたような顔で黙り込んだが、それももはやどうでもいい。
これは命を賭けた忠言などではない。そのまま刃のひと振りで断ち切られても大谷には何の未練もないのだ。
何せひどく、億劫になった。くだらぬ。くだらぬ。放っておけば勝手に自滅するような男、これ以上助けて何になる。そう思った大谷もまた、総てに不幸を降り注がせるという己自身の目的すらどうでも良いと思う程度には正気を失っていたのだ。
他ならぬ三成に刃を突きつけられるという状況が、無意識のうちに大谷を追い詰めていた。
「早う、早う」
挑発するように薄く笑いながら、とんとんと軽く己の喉元を指先で叩く。三成の眉が、不快を表して顰められた。大谷は、三成が戯れた素振りを嫌うことを誰よりも心得ている。この瞬間に首を刎ね飛ばされてもおかしくはない。
だが、三成は刃を薙ぎ払うでもなく引くでもなく、大谷の首の後ろに刃の背を回すと、そのまま刀で大谷を引き寄せた。唐突な動きに前のめりに上向いた大谷を、三成が上から見下ろして怒鳴りつけた。
「ふざけるな、雑賀如きと引き替えだと。貴様の首がそれほど安いものか!」
その内容に唖然とした大谷が見返した先で、つい先程まで纏っていたはずの凶悪さを取り払った三成は、単に不愉快げな色を乗せて端正な顔を歪めている。
あまりに早い変わり様に、大谷だけが取り残されて混乱した。三成は、激昂したふりを出来るような器用な男ではない。先程までの狂ったような憤怒はどこへ消えた、と大谷が凝視する先で、三成が小さく言う。
「……貴様の首など要らん」
その声が含む確かな恐れを聞き取って、大谷は驚愕に眼を見開いた。
喪失の恐れ。
この男は、大谷の死を意識した途端に我に返る程度には、それを恐れているのだと。
思い知って、いっそ茫然とした大谷の首の後ろから刀が引き抜かれた。そして刀の代わりに三成の伸ばした片手が、大谷の首を捕える。立つことの出来ない大谷に合わせて自らも腰を落としながら、三成は傷の有無を確認するように大谷の首を指で撫ぜた。
「雑賀など要らん。……貴様さえいれば事足りる」
無防備な状態で思いもよらぬ言葉を聞いた大谷は、それを告げた双眸の深い色合いに惹かれ、意識もしないまま指先が彷徨うに任せて三成へと――己への執着を映しだす眼へと指を伸ばした。
が、途端にもぞりと動いた手の甲を眼にして凍りつく。