ゆうぐれ、惑い花
信号脇に、小さな花が咲いていたのだ。偶然俺が見つけて、はちに教えた。
何気ない、ひっそりとした咲き方で、たいていのひとは見落としてしまっていただろう。
誰に見られることがなくても、花は平気そうに、五枚の花弁を端正に広げて咲いていた。幾つもの小さな蕾を従えた、リーダーみたいに。その佇まいに気を惹かれて、何気なく口に出したのだ。
言ってみてから、はちは花なんか興味ないかな、と思った。しまったかも、って。
けれど、はちはその花と俺とを見比べて、そんなことを言ったのだった。
(な、似てね? まっしろで、ぴんとしててさ。他人の目とか気にならない感じのマイペースなところとか!)
(……はち。話題に出した俺が言うのもあれだけど、男友達を花にたとえるって、おまえ……)
(え、や、わかってるって、変なこと言ってんのは! でもさあ)
はちは恥ずかしくなったのか、顔を赤くした。
(ここに三郎がいたら、思いっきりからかわれるところだな)
(うわー、二人っきりで良かった! な、兵助、あいつらには内緒な!)
内緒な、だって。おまえは女子かっていうんだ。
慌てるはちの顔が思い出されて、俺は少し笑う。
けれど。
彼が、俺に似てるなんておかしなことを言った、その小さな花は今、地面に倒れていた。茎が途中から折れて、ちぎれてしまっている。
誰かに踏まれでもしたのだろう。潰された花弁が、きたない汁を滲ませてアスファルトを汚していた。
それは痛ましい様子だったけれど、俺は、なんだか妙に納得している自分に気づく。
一瞬、それを見つめた。
(兵助に似てる、)
なら、俺はあの花になりたい。誰かに踏み潰されても、悲鳴も聞こえないものになりたい。
そうなったら俺はもう、言ってはいけない言葉を我慢して、好きでもないジュースなんか口に詰め込まなくてもすむはずだ。
花が踏まれても、誰もわざわざ見たりしない。彼だって、あの時俺が指差さなければ、あんな花、そこにあることにも気づかなかったろう。
泣き喚いたって、叫んだって彼には聞こえない。俺が踏み潰されている頃、彼は、俺ではない誰かの隣で笑っている。
彼の心に届かないなら、声なんか、もう一生出なくってもいい。
「あ、」
はちが不意に何かに気づいた顔になって、信号の脇に寄った。俺は驚いて、その動きを見守る。
「どうしたの」
「これ、」
はちは路上にしゃがみこんでいた。
信号の傍。主張することもなく、だけど凛として咲いていた、小さな花。
今は踏み潰されて、見る影もないそれを、彼は迷わずに見つけた。
「なんかちっさくてきれいな花がさ、咲いてたんだけど」
ちぎれた花の欠片を庇うように、そっと指先で触れる。
「踏まれちゃったんだな。かわいそうに」
「……そんな小さい花のことなんか、どうでもいいだろ。よく憶えてるな、はち」
自分の舌が勝手に喋っている。どんな表情をしているのか、自分でもわからなかった。
「こら兵助、そういうこと言うなよ。どうでもいいだとか」
八左ヱ門は立ち上がって、軽く俺を咎めた。だって、と囁いたまま、俺は言葉を続けられない。
「そんなこと思ってないくせに。素直じゃねぇなあ」
苦笑して、彼は腰に手を当てた。
「別に……そんな、」
「だって、お前が最初に見つけたんだぜ。あそこに小さな花があるなって。覚えてねぇの?」
はちは不満そうに言った。それから、少し照れたみたいに続ける。
「じゃ、これも覚えてねぇのかなぁ。俺、こう言ったんだよ。
――なんか、兵助みたいだな、って。まっしろで、ぴんとしててさ。うるさくねぇけど、凄ぇ綺麗なんだ」
大きな掌が俺の頭に触れて、くしゃりとかき混ぜるように撫でた。
「な。兵助みたいだろ?」
何が、な、だ。
おまえはまた、男を平気で花にたとえたりして。
俺は答えられなかった。彼の輪郭を縁取る、夕暮れの微かな光に、胸をちりちりと焼かれているようだった。そこから穴が開いてしまう。心が流れ出していく。
喉の奥で殺し続けた、たったひとつの言葉が。
死んだ花の生き返る、幻影を見る。
おまえの笑顔だけで、何度でも蘇ってしまう。死に切れない俺の無様な恋が、まだ叫んでいる。