幻想即興曲
「佐為、消えてくれ」
美しいその人はその言葉に柔らかに微笑んだ。
「心配しなくても、時期は来ていますよ」
「なら、いい」
赤ワインを入れたグラスを手にチーズをつまみにその男は夜更けに台所でたたずんでいる。
「奥方はどうなさいましたか」
「美津子なら寝ているよ。主婦は忙しいものだからね」
佐為は変わらず柔らかい笑みをたたえている。
「なら、何故あなたは…」
「外国から帰国したばかりでね、体内時間が日本の時間と合わないんだ」
「それは…」
「時差ボケという。一月くらい時間かけて帰国すればそんな事はないが、銀の鳥、飛行機で帰るとね、一日もかからないで戻ってしまうからね」
「そういうものですか」
「浦賀に来たペルリと言ったか、黒船は一月以上かかって日本に来たんだよ、解るだろう」
「ああ…」
「ころりも運んできたがね」
佐為の周りに青白い光りが瞬く。それは恨みと哀しみの光り。
「虎次郎を奪ったあの病を、ですか」
「ペストが入って来なかったのは運がいい」
「ぺすと…」
「黒死病ともいうんだよ、俺の母の国では…君が生きていた頃か、その二百年くらい後に大流行してね、人口の三分の一が犠牲になったそうだ。紅毛人の国の悲劇だよ」
「恐ろしいものですね…」
「それが歴史さ」
それが大航海の時代を呼び、アメリカの土着の文化を壊滅状態にし、世界に混乱を招いたと。
「人はそうやって命、繋げてきた。仕方ない」
「何故、あなたは答えてくれないと最初は恨みました」
「仕方ないさ。俺たちは同じものだからな。あんたを受け入れたら、俺は…命保たせられない」
「そうですね…」
「だから、次を当たってくれと言ったんだ」
まんじりともせずに佐為を見つめるガラス玉のような瞳。
「あなたは英語という言葉を使いましたね、意味は同じでしたけれど」
「Seek Out Your Next…」
「私はろぼっとじゃありませんよ」
苦笑する佐為。変わらず美しい。月のように、花のように、雪のように。
「ヒカルと楽しかったかい」
「ええ…幸せです」
「生きているときに、愛したかったね、人を」
「そうですね…」
佐為は静かに涙を流した。光りとなって消える涙。
「一杯やるかい」
「無理ですよ…」
ワイングラスを彼は置いた。見事なカットのグラスだ。
「江戸切り子と言ってね、これは年代物さ」
「どのくらい」
「百五十年前にある藩主の家にあったものさ。どうやら将軍家に献上するつもりだったらしいが」
「あの争乱で見送りになっていた…」
「オランダ商館の主からの赤い酒を飲むための器だよ。上様といっても、あんたよりは位は下だ」
「そうですか…」
「正三位は無理だろうな、将軍と言うのは征夷大将軍の事で、貴族の位じゃないからね、武士のもので、都の貴族が頂くものじゃない。あんたは天皇の御前に出ることの出来た御方だしな」
赤い酒を彼はそのグラスに注いで、佐為の前に置いた。
「で…この酒は」
「虎次郎が生きていた頃は将軍家かそれと肩を並べられる大名家でなければ飲めない代物だよ」
「それは恐れ入ったものですね、現代では一般庶民でも飲めますか」
「いや。値段がいいから、それは無理だ。こいつは俺と懇意の著名な指揮者がくれたんだ、年間五本くらいしか醸造出来ない。さほど高級じゃないんだが珍品ものでね、見てご覧」
「血の様に赤いですね」
佐為はグラスに手を伸ばしてみた。感触がある。驚いてその男を見つめた。
「さわれます」
持ち上げる事が出来た。台所の灯りに透かして見た赤い宝石の様な酒。口元にグラスを持ってくると香りがほのかに鼻をくすぐる。ゆっくりとグラスを傾けてみる。
「どうだい」
一口含むと果物の味がした。
「果物、ですね、ブドウ…ヤマブドウの香りがします」
「野生化してたんだっけな」
「珍品で献上物でしたよ」
「うまいだろう」
「ええ、白酒とも黒酒とも違いますね」
「本当にもうすぐなんだな、佐為」
飲み終わったグラスを佐為はテーブルに置いた。
「そうですね」
「ヒカルは泣くだろう…痛いぞ、心が」
「ええ…」
「囲碁は残してやってくれ。それがあいつを助けてくれるだろう」
「勿論ですよ、そのために私は存在したのですから」
「何せ、あいつは俺の息子だ、馬鹿さ加減も徹底しているからな」
「ひどい父上ですね、可愛くないんですか」
「馬鹿だから可愛いのさ」
「あなたは遊べましたか」
「今も遊んでいるさ、モーツァルトとも、シューマンともベートーベンとも…」
「楽譜というもので、ですか」
「ああ。楽しくて仕方ないよ」
「よかった…」
「何が…」
「あなたが幸せなら、楽しいのなら、私は…同じようにしていられますからね」
「厄介だな。もっと生きたいと思う心が俺になり、囲碁を極めたいと思う心があんたになった。そろそろ同化しないと俺もあんたも困った事になる」
「ええ、私はあなたの音楽、好きですよ」
「いつだ、佐為」
「さあ…」
「そうか。ヒカルの寝顔でも見ていたらどうだ、もうすぐ夜が明ける」
「そうですね…」
佐為は台所を抜け、わざわざ歩いて二階のヒカルの部屋へ移動していった。
「律儀なお化けだ…」
彼は江戸切り子のグラスを丹念に洗うと丁寧にぬぐい、桐箱に収めた。
「宝物だからな、これは」
ある意味、母親の形見と言っても言い品物だった。佐為はそれを知っている。
五月五日は彼はヨーロッパにいた。
「戻ったか」
目の前にいる佐為は哀しそうだった。
「伝えられませんでした」
「そのうち、解るさ。気にするな」
「でも…」
「あの子は泣くだろう。でもあんたが蒔いた種は必ず実る。塔矢アキラ…ありゃ駄目か。堅物だからな。そいつじゃない誰かが扉を叩くだろう」
「なら安心ですね」
彼の伸ばされた腕の中に佐為は消えていった。
美しいその人はその言葉に柔らかに微笑んだ。
「心配しなくても、時期は来ていますよ」
「なら、いい」
赤ワインを入れたグラスを手にチーズをつまみにその男は夜更けに台所でたたずんでいる。
「奥方はどうなさいましたか」
「美津子なら寝ているよ。主婦は忙しいものだからね」
佐為は変わらず柔らかい笑みをたたえている。
「なら、何故あなたは…」
「外国から帰国したばかりでね、体内時間が日本の時間と合わないんだ」
「それは…」
「時差ボケという。一月くらい時間かけて帰国すればそんな事はないが、銀の鳥、飛行機で帰るとね、一日もかからないで戻ってしまうからね」
「そういうものですか」
「浦賀に来たペルリと言ったか、黒船は一月以上かかって日本に来たんだよ、解るだろう」
「ああ…」
「ころりも運んできたがね」
佐為の周りに青白い光りが瞬く。それは恨みと哀しみの光り。
「虎次郎を奪ったあの病を、ですか」
「ペストが入って来なかったのは運がいい」
「ぺすと…」
「黒死病ともいうんだよ、俺の母の国では…君が生きていた頃か、その二百年くらい後に大流行してね、人口の三分の一が犠牲になったそうだ。紅毛人の国の悲劇だよ」
「恐ろしいものですね…」
「それが歴史さ」
それが大航海の時代を呼び、アメリカの土着の文化を壊滅状態にし、世界に混乱を招いたと。
「人はそうやって命、繋げてきた。仕方ない」
「何故、あなたは答えてくれないと最初は恨みました」
「仕方ないさ。俺たちは同じものだからな。あんたを受け入れたら、俺は…命保たせられない」
「そうですね…」
「だから、次を当たってくれと言ったんだ」
まんじりともせずに佐為を見つめるガラス玉のような瞳。
「あなたは英語という言葉を使いましたね、意味は同じでしたけれど」
「Seek Out Your Next…」
「私はろぼっとじゃありませんよ」
苦笑する佐為。変わらず美しい。月のように、花のように、雪のように。
「ヒカルと楽しかったかい」
「ええ…幸せです」
「生きているときに、愛したかったね、人を」
「そうですね…」
佐為は静かに涙を流した。光りとなって消える涙。
「一杯やるかい」
「無理ですよ…」
ワイングラスを彼は置いた。見事なカットのグラスだ。
「江戸切り子と言ってね、これは年代物さ」
「どのくらい」
「百五十年前にある藩主の家にあったものさ。どうやら将軍家に献上するつもりだったらしいが」
「あの争乱で見送りになっていた…」
「オランダ商館の主からの赤い酒を飲むための器だよ。上様といっても、あんたよりは位は下だ」
「そうですか…」
「正三位は無理だろうな、将軍と言うのは征夷大将軍の事で、貴族の位じゃないからね、武士のもので、都の貴族が頂くものじゃない。あんたは天皇の御前に出ることの出来た御方だしな」
赤い酒を彼はそのグラスに注いで、佐為の前に置いた。
「で…この酒は」
「虎次郎が生きていた頃は将軍家かそれと肩を並べられる大名家でなければ飲めない代物だよ」
「それは恐れ入ったものですね、現代では一般庶民でも飲めますか」
「いや。値段がいいから、それは無理だ。こいつは俺と懇意の著名な指揮者がくれたんだ、年間五本くらいしか醸造出来ない。さほど高級じゃないんだが珍品ものでね、見てご覧」
「血の様に赤いですね」
佐為はグラスに手を伸ばしてみた。感触がある。驚いてその男を見つめた。
「さわれます」
持ち上げる事が出来た。台所の灯りに透かして見た赤い宝石の様な酒。口元にグラスを持ってくると香りがほのかに鼻をくすぐる。ゆっくりとグラスを傾けてみる。
「どうだい」
一口含むと果物の味がした。
「果物、ですね、ブドウ…ヤマブドウの香りがします」
「野生化してたんだっけな」
「珍品で献上物でしたよ」
「うまいだろう」
「ええ、白酒とも黒酒とも違いますね」
「本当にもうすぐなんだな、佐為」
飲み終わったグラスを佐為はテーブルに置いた。
「そうですね」
「ヒカルは泣くだろう…痛いぞ、心が」
「ええ…」
「囲碁は残してやってくれ。それがあいつを助けてくれるだろう」
「勿論ですよ、そのために私は存在したのですから」
「何せ、あいつは俺の息子だ、馬鹿さ加減も徹底しているからな」
「ひどい父上ですね、可愛くないんですか」
「馬鹿だから可愛いのさ」
「あなたは遊べましたか」
「今も遊んでいるさ、モーツァルトとも、シューマンともベートーベンとも…」
「楽譜というもので、ですか」
「ああ。楽しくて仕方ないよ」
「よかった…」
「何が…」
「あなたが幸せなら、楽しいのなら、私は…同じようにしていられますからね」
「厄介だな。もっと生きたいと思う心が俺になり、囲碁を極めたいと思う心があんたになった。そろそろ同化しないと俺もあんたも困った事になる」
「ええ、私はあなたの音楽、好きですよ」
「いつだ、佐為」
「さあ…」
「そうか。ヒカルの寝顔でも見ていたらどうだ、もうすぐ夜が明ける」
「そうですね…」
佐為は台所を抜け、わざわざ歩いて二階のヒカルの部屋へ移動していった。
「律儀なお化けだ…」
彼は江戸切り子のグラスを丹念に洗うと丁寧にぬぐい、桐箱に収めた。
「宝物だからな、これは」
ある意味、母親の形見と言っても言い品物だった。佐為はそれを知っている。
五月五日は彼はヨーロッパにいた。
「戻ったか」
目の前にいる佐為は哀しそうだった。
「伝えられませんでした」
「そのうち、解るさ。気にするな」
「でも…」
「あの子は泣くだろう。でもあんたが蒔いた種は必ず実る。塔矢アキラ…ありゃ駄目か。堅物だからな。そいつじゃない誰かが扉を叩くだろう」
「なら安心ですね」
彼の伸ばされた腕の中に佐為は消えていった。