幻想即興曲
「ヒカルが変だって…そいつはいつもの事だろう、みっちゃん、何怒っているんだ」
「この鈍感っ」
「解っているよ、それは奴が解決しなきゃ行けないことだ。どーせ高校なんかいけやしないんだろ」
「お気楽ね」
「仕方ないさ、奴も社会人だ。自分で何とかするまでほっとけよ。こういうときは何言ったって役にはたたねえよ」
「達観しているわね。いつ帰ってくれるの」
「夏になるよ」
「そう、解ったわ」
ぬらりひょんな旦那を持って私は不幸だわ、と美津子は思っていた。
伊角という人が助けてくれたと聞いて、彼は微笑んだ。
「種は実るものさ」
「なあに、まったく…」
美津子には何も解らない。
「で、塔矢君は」
「それがねえ…その時は駄目だったみたいなのよ」
「ふーん、で、うちに来たりもするんだろう」
「今日、これから来るんですって」
「そいつは都合がいいな」
「え」
またからかうんでしょ、美津子はそう言って溜息をついた。癖が悪い。ぬらりひょんで、素性は隠したままの、変な男。それが進藤正夫の実態。
「ヒカルーっ塔矢君。おい、居間に通せよ」
「ああ、そっか」
居間にって。対局と検討の為に来たのですが、と言いそうな塔矢アキラを正夫は見ていた。
「挨拶ぐらいしろよ、減るものじゃないだろう」
この金髪で青い眼の体格も立派な男が父親とは信じられなかった。しかも初対面だった。
「あ、どうも、いつも、その…」
「初めまして。うちのチビが世話になってるな」
「ち…」
チビねえ。確かに彼に比べればヒカルは小柄だった。差し出された手は大きかった。
「こっちだよ」
居間。グランドピアノと応接セットのある簡素な洋室だった。彼はピアノの蓋を開け、椅子に座った。
「さて…ヒカル、何がいい」
「何って」
「決まってるだろ」
「モーツァルトなら何でもいい」
「このやろ」
ピアノソナタを一曲、奏で始める。短調のものだ。
「長調がいいか、やっぱり」
「どうかなー…なんだかわかんないけど、ちと暗い方がらしいかな」
「そりゃ人間だからね、モーツァルトも」
クラシックのピアノ曲が流れるなんて知らなかった。
「ショパンにしておくか」
暗譜でショパンを弾くとは。普通じゃない。ただの趣味とは違う。ミスが極端に少ないのだ。アキラはそれに気付いた。
「え…」
難曲と名高い曲も奏でている。弾いているではない。弾いているレベルじゃない。音がきちんと響き、意味を持っている。
「進藤…」
「何」
「君のお父さんはプロのピアニストなのか…」
「そうだよ」
「そうか…」
只で聞く演奏ではない。これは。
「オーストリアの名前で活動しているから、進藤正夫じゃ誰も知らないよ」
「オーストリア…」
「うん、エディ・ベルナー」
モーツァルトで名高いピアニストの名前。一度は耳にしている。明子が音楽学校出身だったので、いくらか関心はあったが、区別がつかないと言った時から明子はアキラに音楽の事は言わなくなってしまった。
「古典で名高い人で最近はロマン派、近代もよく取り上げているって聞いた」
「へー…気持ちよければどれでもいいじゃん、そんなの、ねえ父さん」
「そうだな」
くすっと笑って鍵盤にある指はまた違う作曲家のものを奏でている。
「ねー今度はなんだっけ」
「シューマンのピアノ協奏曲とガラで呼ばれたんだ、来るか、ヒカル」
「楽屋でいい」
「食い散らかすなよ」
「うん」
一家団欒。その様にアキラは早々に進藤家を辞した。一度も対局はなかった。
塔矢家で運営している碁会所に彼が来ていた。ヒカルはいなかった。広瀬と談笑しつつ打っていた。
「なかなか強いですね」
「どうでしょうね」
アキラが見てみるとなかなか強かった。何か引っかかるけれど。
「あの…お相手」
「君とは打たない」
彼はそう言った。
「打ったら、戻れなくなるからね」
不思議な言葉。彼の視線は宙をさまよい、ふと停まる。
「先に進んだらいけないんだ、それは俺の役目じゃないからね」
意味が解らない。彼は微笑んで、ある棋譜を並べた。
「だから、進んではいけないんだ」
それは、アキラとヒカルしか知らないはずの棋譜。
「進藤に…」
「ヒカルには教わってない」
じゃらと石を崩し、彼はもう一度繰り返した。
「俺がやるのは…楽譜…」
手にしていた鞄から取り出したグリーグのピアノ協奏曲のピアノ譜。
「棋譜じゃなくて、楽譜だよ」
打たない人。アキラは何も言わなかった。
「佐為はいない。もう何も聞かないでいてくれると助かる」
「いつか話すと言いました」
「話さないかも知れない。覚悟はしておけよ」
「はい…」
話さないかも知れない。それは知っていた。
「綺麗な人だったよ、佐為はね」
彼はそう言って立ち去った。
「聞けない…」
アキラはそう思った。
「本当にもうないな…」
「何が」
「この碁盤、変なシミがついてたんだけどなあ、あの美人がいたときは」
「父さんっ」
「でも、俺は次を当たれと言ったんだ」
「そう…それで、俺が次ってわけ」
「そうだろな」
碁盤の美人。五月五日に、進藤正夫は赤ワインを江戸切り子のグラスに入れ、碁盤の前に置く。
「佐為。あいつも本因坊さまだぜ」
美しいあの人が笑う。彼方で。幻想的に。
おわり