空には青く、何もない
柳さんは物を残しておくのを嫌がった。
というか、そういうものに価値を感じられないようだった。
デートに行ったとき見た映画の半券とか、もうその子と別れちゃってても、なんか捨てられないんすよねー。
二人での帰り道、もうすぐ関東大会だ、とかそんなことから始まった話の流れでなんとなく言った俺に、軽くバカだなとでも笑うかと思えば、なんだか複雑そうな驚いたような顔で柳さんは目を丸くした。
少し黙ってから、そうか、とだけ言った。
中途半端に会話が終わってしまい、俺はそのまま、はあ、と自分でもどんな意味か分からない返事をして、こんなに青くなくてもいいほど晴れた空の下、駅まで気まずいような、なんで俺が気まずいんだというような少し腹が立つような気持ちで歩いた。
その日のその会話は、妙に俺の心に引っかかっていた。
それからしばらく気をつけて見ていれば、柳さんはデートやそんなことに限らず、すべてにおいて写真や記録を嫌っていることに気づいた。
大事にしているように思えたノートも、簡単なメモや計算がほとんどで、肝心の答えや結果なんかはちっとも書いていなかった。
なぜだろう、と思った。分からなかった。さりげなく周りの人に聞いたりできればよかったのだけど、うまくやってのける自信がなかったのでできなかった。絶対「赤也がこんなこと聞いてきた」と本人の耳に入るに違いない。なので、部活が終わったあと、柳さんに直接聞いた。
「柳さん」
すでに帰り支度を終え、今にも出て行こうとしていた柳さんは立ち止まり首だけで振り返る。
「本当のデータって、どこにしまってあるんですか?」
柳さんはものすごく当たり前のことを聞かれたような、つまり俺がものすごく変なことを聞いたような顔をして、それから頭の中だと答えた。
「え、だってレギュラー以外のデータもあるんでしょ?」
俺は驚いて聞き返すけれど、柳さんはなぜ俺が驚いたかも理解できないような顔で頷いた。
「ああ」
「全部、覚えてるんですか?」
「ああ。それが一番確実だろう」
確かに一番確実だけど、それはだって、普通できないだろう。あんなにものすごい量の。あんな細かさの。俺はぽかんと口を開けた。
『得意科目は全教科』と言ってのける柳生先輩よりも成績がいいこの人のすごさを身近に見た気がして、低く唸る。すごいとも思ったし、同じだけの違和感も感じた。だって、普通じゃないからだ。
彼がその記憶能力を誇り、すごいだろうとでも言ったのなら、こうは思わなかったろう。純粋に感動し、その頭の良さを尊敬もしたはずだ。でもそうじゃなかった。まるでそうするのが当たり前のことのように口にした。
普通じゃないことを普通のように言ってのける彼に俺が感じたのは、感心よりも違和感だった。
「……大変、じゃないすか?」
俺はおずおずと尋ねた。体ごとこっちに向き直ったものの、柳さんは無表情を崩さず、やはり記憶力を誇る様子もない。
「そうか?」
「いちいち覚えてなくても、ノートとかに書いときゃ、普通に確認できるじゃないすか。いつも持ち歩いてるんだし……」
「だってなくなるじゃないか」
言葉を遮る勢いでの返事は、俺の提案を拒否するような硬質な口調だった。柳さんは俺を睨むように見据えて続けた。なのに俺はまるで彼が全然俺ではないところをみているような気になった。
「物は絶対になくなるんだ。どんなに小さなものも、大きなものも、どんなに大切なものも、なくなるんだ。そうしたら終わりだ。絶対になくさないのは、絶対にどこへでも持っていけるものは、俺が記憶しているものだけだ」
「…………」
熱弁はどこか異様だった。そもそもが、こんなに長いセリフを口にするということ自体が変だった。自分に言い聞かせているようだと俺は感じた。自分にかける、呪いのようだと。
「……だからどんな言葉もどんなしぐさも、俺は覚えておかなくちゃいけない」
柳さんは床に目を落とし、俺の反応なんて気にならないように、真剣な顔で呟いた。俺は少し怖かった。彼をこうさせるだけの、こうまで頑強に記録を拒み、自分だけを信じるようになった理由を知るのが怖かった。ドアの上にかけたれた時計の秒針がかちりかちりと時を刻んでいく。沈黙が重い。
これ以上このことに触れまいと思った。
なんとか普段の空気に戻そうと、明るい口調で尋ねる。
「……あ、じゃあ、昔の記憶もあります?」
どうにか続ける言葉を見つけた俺に、柳さんはなんだかびくりとしたように見えた。
どうしたんだろうと思いながら、ロッカーに入れていた鞄を引っ張りだし、中から目当ての教科書を見つける。
「これなんすけど、俺、理科ってダメなんすよ。なんか覚えてるとこだけでもわかりやすく教えてくれませんか」
明るくねだるように言いながら今回のテスト範囲に入っている天体のページを開いて聞いてみると、柳さんはあ、いや、と急にもごもご言い出した。俺は少し安心したような、少し意地悪な気持ちになった。
ちょっとからかってやれ、という思いがわいてくる。
俺がふざけたことを言って、柳さんがたしなめて、そんないつもの掛け合いをすれば、さっき感じた違和感なんてのも、きっと忘れてしまうはずだ。
俺はいつもの、ちょっと生意気そうな感じで笑った。小首を傾げて、上目遣いに唇の片方だけを吊り上げてにやりとしてみせる。
「あ、さては、昔のことは覚えてないんでしょう」
「!!」
柳さんはその瞬間、すごい勢いで俺を睨みつけた。
一瞬息がとまるほどに激しい、憎しみがこもっているといってもいいようなすごい目つきだった。
俺は呆然とした。柳さんは次の瞬間理性を取り戻し、すまない、と軽く頭をさげた。俺はいや、俺こそすいませんと謝った。
柳さんは眉を寄せ、俺を見ずに言った。
「忘れてくれ」
俺は、はい、と頷いた。
忘れることはできないだろうなと思った。
それから日は経ち、テストも普通に終わった。結局天体については教えてはもらえなかったし、俺も二度頼む気にはなれなかった。
ひどい結果だったテストを握り締め部室のベンチでうなだれる俺に、仁王先輩が呆れたように「柳生に頼めばよかったんに」と呟いた。
今更と思いながらも顔をあげる。
「あ、柳生先輩このへん得意なんすか?」
「ああ。俺も去年教えてもらったけえ」
そうなのか。振り向いた俺に、着替えながらも俺たちの話を聞いていたらしい柳生先輩は苦笑した。
「嘘ですよ。教えてもらったのは私の方です」
そもそもは仁王くんの得意分野ですから、と話を戻された仁王先輩はピヨッと嘯いてロッカーを閉め、にやつきながら外へ行ってしまった。
「え、あ、嘘?」
「仁王くんは意味のない嘘が好きですからね」
その背中を見送りながらの柳生先輩のセリフを受けて、
「それはお前もだろう」
と部屋に入ってきたばかりの柳さんが答えた。
ロッカーを開けて着替えを始めながら、柳生先輩に顔だけを向ける。
「天体が得意なのはお前じゃないか」
「…………」
柳生先輩もにやっと笑うと、仁王先輩を追いかけるようにしてすっと部室を出て行ってしまう。
というか、そういうものに価値を感じられないようだった。
デートに行ったとき見た映画の半券とか、もうその子と別れちゃってても、なんか捨てられないんすよねー。
二人での帰り道、もうすぐ関東大会だ、とかそんなことから始まった話の流れでなんとなく言った俺に、軽くバカだなとでも笑うかと思えば、なんだか複雑そうな驚いたような顔で柳さんは目を丸くした。
少し黙ってから、そうか、とだけ言った。
中途半端に会話が終わってしまい、俺はそのまま、はあ、と自分でもどんな意味か分からない返事をして、こんなに青くなくてもいいほど晴れた空の下、駅まで気まずいような、なんで俺が気まずいんだというような少し腹が立つような気持ちで歩いた。
その日のその会話は、妙に俺の心に引っかかっていた。
それからしばらく気をつけて見ていれば、柳さんはデートやそんなことに限らず、すべてにおいて写真や記録を嫌っていることに気づいた。
大事にしているように思えたノートも、簡単なメモや計算がほとんどで、肝心の答えや結果なんかはちっとも書いていなかった。
なぜだろう、と思った。分からなかった。さりげなく周りの人に聞いたりできればよかったのだけど、うまくやってのける自信がなかったのでできなかった。絶対「赤也がこんなこと聞いてきた」と本人の耳に入るに違いない。なので、部活が終わったあと、柳さんに直接聞いた。
「柳さん」
すでに帰り支度を終え、今にも出て行こうとしていた柳さんは立ち止まり首だけで振り返る。
「本当のデータって、どこにしまってあるんですか?」
柳さんはものすごく当たり前のことを聞かれたような、つまり俺がものすごく変なことを聞いたような顔をして、それから頭の中だと答えた。
「え、だってレギュラー以外のデータもあるんでしょ?」
俺は驚いて聞き返すけれど、柳さんはなぜ俺が驚いたかも理解できないような顔で頷いた。
「ああ」
「全部、覚えてるんですか?」
「ああ。それが一番確実だろう」
確かに一番確実だけど、それはだって、普通できないだろう。あんなにものすごい量の。あんな細かさの。俺はぽかんと口を開けた。
『得意科目は全教科』と言ってのける柳生先輩よりも成績がいいこの人のすごさを身近に見た気がして、低く唸る。すごいとも思ったし、同じだけの違和感も感じた。だって、普通じゃないからだ。
彼がその記憶能力を誇り、すごいだろうとでも言ったのなら、こうは思わなかったろう。純粋に感動し、その頭の良さを尊敬もしたはずだ。でもそうじゃなかった。まるでそうするのが当たり前のことのように口にした。
普通じゃないことを普通のように言ってのける彼に俺が感じたのは、感心よりも違和感だった。
「……大変、じゃないすか?」
俺はおずおずと尋ねた。体ごとこっちに向き直ったものの、柳さんは無表情を崩さず、やはり記憶力を誇る様子もない。
「そうか?」
「いちいち覚えてなくても、ノートとかに書いときゃ、普通に確認できるじゃないすか。いつも持ち歩いてるんだし……」
「だってなくなるじゃないか」
言葉を遮る勢いでの返事は、俺の提案を拒否するような硬質な口調だった。柳さんは俺を睨むように見据えて続けた。なのに俺はまるで彼が全然俺ではないところをみているような気になった。
「物は絶対になくなるんだ。どんなに小さなものも、大きなものも、どんなに大切なものも、なくなるんだ。そうしたら終わりだ。絶対になくさないのは、絶対にどこへでも持っていけるものは、俺が記憶しているものだけだ」
「…………」
熱弁はどこか異様だった。そもそもが、こんなに長いセリフを口にするということ自体が変だった。自分に言い聞かせているようだと俺は感じた。自分にかける、呪いのようだと。
「……だからどんな言葉もどんなしぐさも、俺は覚えておかなくちゃいけない」
柳さんは床に目を落とし、俺の反応なんて気にならないように、真剣な顔で呟いた。俺は少し怖かった。彼をこうさせるだけの、こうまで頑強に記録を拒み、自分だけを信じるようになった理由を知るのが怖かった。ドアの上にかけたれた時計の秒針がかちりかちりと時を刻んでいく。沈黙が重い。
これ以上このことに触れまいと思った。
なんとか普段の空気に戻そうと、明るい口調で尋ねる。
「……あ、じゃあ、昔の記憶もあります?」
どうにか続ける言葉を見つけた俺に、柳さんはなんだかびくりとしたように見えた。
どうしたんだろうと思いながら、ロッカーに入れていた鞄を引っ張りだし、中から目当ての教科書を見つける。
「これなんすけど、俺、理科ってダメなんすよ。なんか覚えてるとこだけでもわかりやすく教えてくれませんか」
明るくねだるように言いながら今回のテスト範囲に入っている天体のページを開いて聞いてみると、柳さんはあ、いや、と急にもごもご言い出した。俺は少し安心したような、少し意地悪な気持ちになった。
ちょっとからかってやれ、という思いがわいてくる。
俺がふざけたことを言って、柳さんがたしなめて、そんないつもの掛け合いをすれば、さっき感じた違和感なんてのも、きっと忘れてしまうはずだ。
俺はいつもの、ちょっと生意気そうな感じで笑った。小首を傾げて、上目遣いに唇の片方だけを吊り上げてにやりとしてみせる。
「あ、さては、昔のことは覚えてないんでしょう」
「!!」
柳さんはその瞬間、すごい勢いで俺を睨みつけた。
一瞬息がとまるほどに激しい、憎しみがこもっているといってもいいようなすごい目つきだった。
俺は呆然とした。柳さんは次の瞬間理性を取り戻し、すまない、と軽く頭をさげた。俺はいや、俺こそすいませんと謝った。
柳さんは眉を寄せ、俺を見ずに言った。
「忘れてくれ」
俺は、はい、と頷いた。
忘れることはできないだろうなと思った。
それから日は経ち、テストも普通に終わった。結局天体については教えてはもらえなかったし、俺も二度頼む気にはなれなかった。
ひどい結果だったテストを握り締め部室のベンチでうなだれる俺に、仁王先輩が呆れたように「柳生に頼めばよかったんに」と呟いた。
今更と思いながらも顔をあげる。
「あ、柳生先輩このへん得意なんすか?」
「ああ。俺も去年教えてもらったけえ」
そうなのか。振り向いた俺に、着替えながらも俺たちの話を聞いていたらしい柳生先輩は苦笑した。
「嘘ですよ。教えてもらったのは私の方です」
そもそもは仁王くんの得意分野ですから、と話を戻された仁王先輩はピヨッと嘯いてロッカーを閉め、にやつきながら外へ行ってしまった。
「え、あ、嘘?」
「仁王くんは意味のない嘘が好きですからね」
その背中を見送りながらの柳生先輩のセリフを受けて、
「それはお前もだろう」
と部屋に入ってきたばかりの柳さんが答えた。
ロッカーを開けて着替えを始めながら、柳生先輩に顔だけを向ける。
「天体が得意なのはお前じゃないか」
「…………」
柳生先輩もにやっと笑うと、仁王先輩を追いかけるようにしてすっと部室を出て行ってしまう。
作品名:空には青く、何もない 作家名:もりなが