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空には青く、何もない

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「あ、……」
蓮二という呼び方と、友達という言葉に一瞬はいともいいえとも言えなかった。二人してしどろもどろな俺たちに、『貞治』サンは首をかしげる。
「さ、さだは、る……」
喉に何かがつっかえたような掠れた声で柳さんが呟いた。そっと盗み見た顔は、動揺、驚き、焦り、恐怖、不安、そんないろいろな感情が混ざったような複雑な表情に引きつっていた。
「いやあ、それにしても蓮二、背が伸びたな。最後に会った時は確か、140とか145とか……それくらいじゃなかったかい?」
「あ、ああ……」
「俺も大分伸びたけどね、でも蓮二も元気そうで何よりだよ」
呑気なことを言って笑う幼馴染に柳さんは唾を飲み、口を開く。
「貞治、俺は……」
「懐かしいな、蓮二もこのテニスクラブに来たんだろ? 昔のままだよ、俺たちが壊したスコアボードもまだ無理やり使ってる。そうそう、あれを壊しちゃった日のこと覚えてるかい? 蓮二とスマッシュの練習を……」
「すまない」
「え?」
「俺は……覚えていない」
俺の手の骨が折れるほどに握り締めて、柳さんは呻くように言った。その顔色がひどく悪いように見えて、俺は手の痛みよりも柳さんの体調を心配してしまう。
決死の覚悟の告白を受けたとも知らず、『貞治』サンはひょいと眉を上げて、軽く頷いた。
「そうか、まあ四年も前のことだしね」
あっさりとそう片付け、久しぶりにコーチに会っていかないかと誘う。
「……それだけなのか?」
「何が?」
柳さんの声に、何を言われているのかよく分からないようなのどかさで答えた。
「……忘れていた、俺に……何か言うことが……」
自分から死刑執行の時間を尋ねるような、できるならこの場から走って逃げ去りたいような気持ちとやるなら早くやってくれとヤケになったような気持ちがないまぜになった調子で柳さんは続けた。そんな緊張感に一切頓着せず『貞治』サンは瞬きをした。
「何で? 四年も経てば、そりゃ忘れるでしょ」
何もおかしくないよ。そう言って柳さんの腕をぽんぽんと叩く。
「そんなことで怒ったりしないよ。蓮二は昔から心配性だからなあ」
そんなこと気にしてたの? 笑いながら子供にするようにぐしゃぐしゃと頭を撫でて髪を乱してみせる仕草は、確かに相当親しい間柄での遠慮のなさだ。


それから俺たちは、今でもちょこちょこ練習に来ているという貞治サンの案内でテニスクラブをぐるりと見て回った。二人があれこれと話しているのを、聞くでも聞かないでもなしに俺は後ろからついていく。
お世話になったらしいコーチに挨拶をするという時には、部屋に入らずに待っていた。何を話していたかは分からないが、たまに漏れてくる笑い声を聞きながら、四年前の柳さんが歩いていたろう廊下を眺め、壁に貼ってある防災についての古びたポスターなんかをじっくり読んでみる。割と子供向けの施設なのか、廊下はなんだか狭いし、天井も低いように感じた。向こうの開いた窓からだろうか、コートでボールを打ち合う音や、笑い声が聞こえた。
その中に俺が混ざったら、たとえ格下相手にでも絶対にムキになってしまうなと壁に寄りかかりながら少し思いを巡らせた。自分の性格は、自分でそれなりに把握しているつもりだ。
「お待たせ」
「赤也、待たせたな」
二人が出てきて俺に声をかける。やはり緊張していたのか、俺の顔を見てほっと柳さんの雰囲気が緩むのを感じた。一緒に来た甲斐があったかと俺もなんだかほっとする。
「俺、隣にいた方がよかったッスか?」
からかうように言うと
「そうだな、お前は落ち着きがないから、コーチと話している間もどこかに行ってやしないかと気が気じゃなかった」
同じ軽さで冗談半分の台詞が返ってくる。
「ふと見たらいなくなってるって、ほんと怖いよね」
横から呑気な声で打たれた相槌に、僅かに柳さんの顔が強張った。俺は一瞬ひやりとする。
貞治サンもそれに気づいたようではあるけれど、そのまま言葉を続けた。
「でもさあ」
「何だ?」
柳さんの相槌はいくらか硬かった。
「俺とかみんなには蓮二がいなくなったって感じだったけど、蓮二にとっては俺たちがいなくなったって感じじゃなかった? 急な転校だったんでしょ?」
のんびりとした口調には、さして感慨があるわけでもなかった。言った本人にも、深い意味もなかっただろう。ただ、俺の中では何かが腑に落ちた。
俺としては四年分の積もる話でもあるかと思っていたのだが、貞治サンにこの後用事があるとかで、二人は携帯のアドレスを交換したくらいであっさりと別れることになった。
「もっと話したいのは山々だけど、これから海堂と待ち合わせでね。いい子だけどちょっと人見知りの気があるから、四人でおしゃべりは無理そうだ」
貞治さんはまるで自分の都合のようにそう言ったけれど、もしかしたらまだどうしたらいいか分からない風情の柳さんを見て、そういう気の使い方をしてくれたのかもしれなかった。
「貞治」
「なに?」
「……すまない」
別れ際の柳さんの言葉にも気にする必要はないと笑ってみせて、またねと当たり前のように言うと軽く手を振って歩いていってしまう。その背中をいつまでも見送っている柳さんの、背中を俺は見ていた。
小さくなった背中が角を曲がってもまだじっと立っていた柳さんは、俺が声をかけようかどうしようかと悩みはじめてからしばらくしてゆっくり振り返った。
「…………緊張した……!」
騒ぐ心臓を上から押さえるように胸を手を当てて言うあたりの大げさな、いくらか子供っぽい仕草が、俺がこの人を好きな部分でもある。
「大丈夫でしたよ、全然フツーにしゃべってましたよ」
「本当か!? おかしくなかったか?」
「全然平気っす」
「……よかった……」
大きく息をついた柳さんは腕で額の汗を拭う。
「……よかった」
もう一度、今度は万感の思いを込めて呟かれた言葉に、俺は満面の笑顔で答えた。
「ほんと、よかったっすね!」
「ああ」
柳さんはゆっくりと頷いた。
あまりに簡単に、あっけなく許しはもらえた。柳さんの言った「逃げるのは自分で追うのは自分」という言葉は、本当に正しかった。ずっと彼は、自分の影に怯えていたのだ。貞治サンは追ってきてすらいなかった。
柳さんはしみじみと息をついた。
「なあ、赤也」
首を仰向けたまま呟いてから、俺に顔を戻す。
「はい」
「空はこんなに青かったか?」
言われて見上げた空は青く、何もない。
「前からこんなんッスよ」
柳さんを見て、俺はにやりと笑ってみせる。
「そうか。……もったいないことをしたな」
そんな俺に笑い返すでもなくぽつりと呟いた柳さんは、目を細めて両腕を空に上げ大きな伸びをした。
作品名:空には青く、何もない 作家名:もりなが