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空には青く、何もない

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「こっちでの生活になんとか慣れても、しばらくは本当に余裕がなかったから、テニスからも離れていた。だから余計、東京へ行くことができなかった。あいつに会いたかったが、怖かった。俺にはもう何もなかった。あいつとテニスをしていた俺はもういなかった。あいつと親しかった分だけ、信頼を築いていた分だけ、あいつが怖かった。俺は恐れた。恐れて、逃げた」
「…………」
「怒っているかもしれないあいつを恐れた。許されないかもしれないことを恐れた。自分が信頼を裏切ったという事実を恐れた。俺は俺のしたことを恐れた。そしてあいつに会おうと思うたびに、何かしら理由をみつけては日を延ばした。日を延ばすだけ、恐怖は大きくなった。俺の中で貞治は恐怖の対象にすらなった。俺はもう、二人で取ったダブルスのトロフィーも、写真も、テニスラケットすら失ってしまっていた」
なかったことにしようとした。俺は自分がしたことから逃げた。したことと、それが起こさせる結果から、そして貞治から。
逃げようと、した。
柳さんは首を折れて呟いた。ああ、これは懺悔なのだ、と俺は思った。
ならばこれを聞くのも許すのも、本当は俺の役割ではないのかもしれない。
それを彼も分かっている。だから東京まで行くのだろう。『さだはる』という、その人に会いに。
「忘れたんだ。逃げた。もう貞治の顔さえ思い出せない。ただ裏切ったという思いだけが、あって、そして、いつか失うという予感が、常にものすごくある。何もかもだ。俺は何も持っていけない。俺は何もできない。俺は失うしかできない。だから、誰も持っていけないように、誰にも奪われないように、俺は覚えておきたいんだ、すべて、出来る限りの全て、俺は」
触れてもいいのだろうかと思いながら柳さんの手にそっと乗せた手を、柳さんは強い力で握り返してきた。溺れている人間がやっと助けを掴んだような切実さだった。
「でも逃げられない。常に逃げているのに俺は逃げられない。逃げるのは俺で追うのも俺なんだ。俺はもう背負えない」
これ以上逃げられない。
呻くように、苦しげに柳さんは呟いた。
「会いに行く。お前も来てくれ」
目を閉じて俯いて、柳さんは俺の手にますます力をこめた。
俺は笑った。
「この状況で、俺帰れないじゃないすか」
だいたい今どこかもわかんないし。わざと明るく言う。
柳さんが教えてくれないと分かんないっすよ。帰り道も、行き先も。
「どこだって行きますよ」
俺は笑った。好奇心と、野次馬根性と、この人を励ましたいという気持ちと、この人の前でかっこつけたいという気持ちと、そういう割と下心の入った顔だったと思う。
俺はあんまりそういうところで純粋ではなかった。いろいろと小狡い計算もするタチだった。そして柳さんも、俺のそういうところをいくらかは知っているんだろうけど、ありがとうと言うように笑い返してきた。どんな気持ちでいたって、二人並んで座っている。今はそれでいいのだろう。
それから何回か聞いたこともない線を乗り継ぎ、電車がだんだん混んできて、息苦しい、と思い始めたくらいで柳さんが「次で降りる」と俺に告げた。人が多いからだろう、少し俺の耳に顔を寄せて囁くようにしたのが、なんだかくすぐったかった。
「ここはどこなんですか?」
降りるときに声をかけたけれど、たくさんの人に吸い込まれてしまって彼のところには届かなかったようで、何か言ったかと振り返る彼に小走りで追いついてもう一度同じことを言った。
「ああ、うん…俺の行っていたテニスクラブの、最寄り駅だ」
さすがに気が重いのか、いくらか口はばったく答えられる。大丈夫だ、と少しでも安心させたくてぎゅっと手を握る。柳さんはちょっと目を見開いて、それからなんだか見たこともないほど明るく笑った。ちょっと眉を寄せて困ったような照れたような、安心したような嬉しいような。そんなふうにこの人が表情を崩すのは本当に珍しいことで、俺は一瞬ぽかんとした。
「どうした、変な顔をして」
尋ねられ
「いや……柳さんも笑うんだなって」
間抜けな答えを返す俺に柳さんは
「そりゃあ笑うさ」
と不思議そうに答えたが、そうじゃなくて、こんなふうな顔、今まで見せたことなかったのに。
あんまり弁解するのも変かなと思ったので、俺の補足はこのまま言葉にされずに終わりそうだった。
「あの、手……」
改札を抜けるときにはさすがに手を離したが、もう繋いでいなくても大丈夫かと心配になって見上げると
「ああ、すまない」
あっさりもう一度差し出される。やはり繋いでいたほうがいいかと握り直すと、前から来る人にやたらと凝視されているような落ち着かない感じがした。
「なんか……俺ら見られてませんか」
「170と180の男が手を繋いで歩いていれば、確かにいくらか人目は引くかもな」
「えっ」
「でもまあ、中二と中三のすることと思えばさして違和感はないんじゃないか」
一瞬引いた俺を見透かすように半端なフォローが入れられる。
「……そういう割り切り方ってアリすか」
俺のぼやきは聞こえなかったことにされたらしい。
そのまま、柳さんに手を引かれるままにあっちを曲がりこっちを曲がりしてしばらく歩いた。たまにあのコンビニがあるはずとか角に銀行があるはずとかを呟いているのを聞く限り、ネットか何かで目的地を探し、地図を丸暗記してきたらしい。さすがと思いながら疑う気もなく指示されるまま足を進める。少し向こうに緑のフェンスが見えてきた、と思うと同時に柳さんがぴたりと足を止めた。
繋いだ手がじっとりと汗で濡れてくる。表情にはあまり出ていないが、相当な緊張が窺い知れて、知らず俺の心臓まで早く打ち出した。二人して蝉の声を聞きながら歩道に立ち止まっていると
「あの、ちょっとすみません」
後ろから声をかけられ、何事かと振り向くと体の前で拝むように片手を立てた背の高い人が俺たちを避けて通ろうとしていた。邪魔だったかと慌てて体を引くより先に
「……教授?」
通りかかった彼は足を止め、柳さんの顔を見つめた。
教授って何だと思いつつ、ほぼ同じ高さにある顔をきょろきょろと見比べ知り合いかと焦る俺をよそに、柳さんが細い目をそれでも目一杯に見開く。
「……貞治!?」
呼ばれた名前を、俺はなんだか、ああやっぱり、という気持ちで聞いた。
どんなに必死に過去から逃げ続けていても、ちょっと足を緩めればこんなふうに、あっさり捕まってしまうものなんだ、というような。だがそういうふうに思えるのは俺が第三者だからのようで、柳さんは心の準備もろくに整っていないらしく驚愕を顔に浮かべ棒立ちに突っ立ったまま動かない。
分厚い眼鏡をかけた、貞治と呼ばれた男は鈍感なのか無神経なのか、柳さんの反応を気にしたふうなく明るい笑みを浮かべた。
「よかった、やっぱり教授か! 懐かしいなあ、今日はどうしたんだい? やっぱり練習に?」
「あ、いや……」
咄嗟に言葉が出てこないらしい柳さんの手を強く握り締めて頑張れと伝える、その動作で俺の存在を思い出したらしく『貞治』サンはくると俺の方に顔を向けた。
繋いだ手を一瞬不思議そうに眺めてから、俺より大分高い位置にある顔を少し近づけて声をかけてくる。
「君は、蓮二の友達?」
作品名:空には青く、何もない 作家名:もりなが