西遊記 the loneliness world
―――…物の怪に惑わされてはならぬぞ、三蔵法師よ。―――
「!」
先程から感じていた違和感。振り返った男と目が合った刹那、三蔵はようやく悟った。
(この者は…)
只者で無いとは思っていた。が、人ですら無かったのだ。
「貴方は…まさか」
「ええ、その、まさかです」
痛々しく、冷ややかに男は微笑んだ。
「―――私は、妖怪」
ぎらり、漆黒の瞳が鋭く光ったが、すぐに力を失い曇った。その中に生気は感じられない。
ふとよく見れば、男の手には釵が握られていた。いつの間に抜いたのだろうか、先端がぴたりと三蔵に向けられていた。
「よく今まで襲われなかったものですね。こっちの世界では、貴重な食材として目をつけられているというのに」
三蔵が一歩下がる。しかし、男が動く気配は無い。
―――急に、恐怖が増したような気がした。思わず三蔵が身構えると、男は喉元で乾いた笑い声を上げた。
「…だが今の私には、貴方を襲う力が無い。そして、もう不死には興味が無い」
「…」
「さあ三蔵法師。貴方の選択肢は二つ」
「…何が、です」
「今すぐ立ち去るか、それとも、私を倒すか」
「…倒す?」
「そう」
半ば諦めたような表情で、釵が下ろされる。
「自力で妖怪を退治したと知れば、貴方を狙う輩は減るでしょう」
全ての音が止んだかのようだった。滾々と流れる水のせせらぎさえが、遥か遠くに感じる。
ふらり、遂に地面に崩れ座り込んだ男の、気配が変わった。周囲を覆っていた碧が薄く大気に溶け、明らかな妖怪のそれがゆっくりと消えていく。
代わりに、苦しげな息遣いが耳に入ってくる。男のものだ。
釵を握っている右腕から指先にかけて、鮮血が流れていた。甲羅をかたどった武具に隠れて分からなかったが、肩の付け根近くの、ざっくりと深く切れた傷から溢れている。
あくまで気丈に、三蔵を見上げる視線は変わらない。が、酷く傷ついた姿が哀れだった。
「…いいえ」
「は」
「貴方を放ってはおけません」
男の困惑を余所に、三蔵が静かに首を振る。
「私のすべきことは、ただ貴方を手当てすることです」
ひゅう、と男の喉が鳴った。
「…さすがは、慈悲深い三蔵法師。素晴らしい。しかし、それは出来ません」
「何故です」
「…私は人間ではありませんから」
「いいえ。生きとし生けるもの、みな等しく扱われなければなりません」
「それは貴方の利己でしょう」
「そうかもしれません。しかし、それが私の説くべきものであり、望む世界です」
不意に、男が高笑いした。
「…それが、人間を殺した妖怪であっても?」
血が吹き出すことも気に留めず、ろくに動かない身体を小刻みに震わせて―――ひとしきり笑い続けた。
漸く笑いが治まる、と同時に、少量の赤が口から吐き出された。
「…大勢の者を手にかけてきたとしても?」
水面へと落とされたそれは一輪の華となって底へ沈んでいく。
「…それでも、です」
俯き、歯切れ悪く呟いた。男が笑う。掠れた声だった。
「だから何だと言うのです?現に我々妖怪は、人間から忌み嫌われ、生きるために人間を利用し殺しています。それのどこに等式が成り立つのです?」
「…」
「…穢れを知らない高僧と、髄まで悪に浸かった妖怪。どうして対等だと言えるでしょうか」
「…」
不思議なことに、男からは、悪意を持った者の感覚を感じなかった。
人に聞く妖怪とは違った印象を受ける。衰弱しているせいもあるかもしれない。が、どういう訳か、妖怪でありながら妖怪の自己を否定しているようだった。
三蔵の肉を食えば不死になるという伝え―――三蔵自身には厄介な話だが―――を、関心無さげに流したところも、何か訳があるように思われた。
(何がこの方を苦しめているのでしょうか)
いや、むしろ、何かを恐れているようだ。悔いているようにも見える。
それが哀しい。
「―――私は、」
どんな仕打ちを受けたのかは分かるはずも無い。だが、救いたかった。
身も心も傷付き、自らを卑下する、この碧い妖怪を、冷たい虚無の世界から引き上げたいと思った。
「都で様々なことを学んできました。国のあり方、人民の理想像、そして仏への忠誠。しかし、本当は何も知らないのです」
男の目を見た。彼もまた、三蔵を見上げる。
「何故、父親は汗水を流して働くのか。何故、母親は乳飲み子を慈しみ育てるのか。人は何を求めるのか。何を信じ、何を感じて生きているのか。
私は、世のことを何も知りません。上辺の知識しか持たないのです」
「…」
「経典を持ち帰り、この世を平和へと導くには、まず私自身が世の中を知らなければなりません。生命(いのち)の生き様を知らなければなりません。
そしてその世界においては、全ての生き物が等しくあることを」
「…」
すっと、三蔵が身体を屈めた。目前に片膝をつき、戸惑いの色を浮かべた男に柔らかく微笑みかけた。
「人間でも妖怪でも。たとえ罪を犯した者であっても。同じ生命を持つもの、この世に生きるものは全て、平等な存在です」
僅かに男の震えが止まる、と、大きく息を吐いた。血に塗れた指先から、鈍い金属音と共に釵が滑り落ちる。
三蔵が再び腕を伸ばした。今度は逃げる気配は無かった。
人間よりも少し低い、しかし暖かな温度を持つ身体。確かな存在を示して脈打つ鼓動。流れる命の液。
「境遇などは関係ないのです。大切なのは、」
「ここですよ」
ぎこちなく動いた男の脚が、ざり、と土を滑った。三蔵を見返すその瞳に、ほんの少しだけ光が入る。
心ノ臓の真上に置かれた手が離れていく。
「貴方は優しい」
「…違います」
「いいえ、優しい方です」
だらり、放置された右腕を見つめて、三蔵が言葉を継ぐ。
「罪の重さを、命の儚さを、心の弱さを、貴方は知っているのでしょう?」
「…」
何かを悟ったような気がした。
絶望した表情。落ち窪んだ眼差し。傷付き、荒み、生きる意味を見失った存在。
都で幾度と無く見てきた、仏に祈り法師に縋る人々の姿に、この碧い妖怪が重なった。
冷たい世界に堕ちた者を、救いたいと願った。違う。何があっても、救わなければいけない。
こんなにも純粋で、大切なことを知っている者こそ。
「手当て、させて下さい」
男が微かに頷く。ありがとうございます、と三蔵が微笑んだ。
堅く目を瞑ってしまったのを後目に、三蔵は荷物の置かれた場所に屈み込んだ。水入れの皮袋を引っ張り出し、河川から流れる水を掬う。
ふと、男が片目を薄く開けた。
「……私など」
苔に滑り、持ち物を漁り、一人あくせくする三蔵をうっすらと見据え、口元だけで笑う。
「愚かな存在ですよ」
聞こえるはずの無い声は、流沙河のせせらぎに溶けた。
作品名:西遊記 the loneliness world 作家名:紅蓮