西遊記 the loneliness world
第一巻 始まりの国
せせらぎが近い。
長安を出発して早数日、三蔵の身体は悲鳴を上げ始めていた。
厳しい修行を積んだ僧とはいえ、舗装の甘い地面に少ない食料、遠く果てしない道。慣れない旅を命じられた身は疲れていた。脚も棒のように重い。
(情けない。まだまだ道のりは長いというのに)
それでも、ゆっくりと、三蔵は歩みを進めた。
道中で出会った旅商人の話によると、この辺りに小さな村があるという。名は何と言ったか、とある河川の源付近に位置しているのだと教えられた。
(…少しだけ、休ませていただけるとよいのですが)
厚かましいこととは思いつつも、暫しの休息を求めて、自然と足並みが速くなる。
ふと、視界が開けた。
小道が二股となり、木立の奥に微かながら、粗末な家々の屋根が窺える。
ほっと安堵の息を漏らし、錫杖の先を左へ向けたその時、
パシャン―――
「―――え?」
水音だ。
不思議に思い振り返った三蔵の視界に、茂みに紛れてひっそりと立てられた木板が飛び込んできた。朽ち果て、薄くなったその楷字を暫し眺める。
八百流沙界(はちひゃくりゅうさのかい)
三千弱水深(さんぜんじゃくすいふかし)
鵞毛飄不起(がもうただよいうかばず)
蘆花定底沈(ろかそこによどみてしずむ)
ああ、と合点がいったように三蔵は頷いた。
(これが、あの河川なのですね)
ふらふらと導かれるように、疲れているのも忘れて、三蔵は迷い無く東へ―――右の道へと足を踏み出した。
―――書物で読んだことがあります。
鳥の羽毛さえ浮かばないという、面妖奇怪な水をたたえた河川、
流沙河―――
静かだった。
ゴツゴツとした岩の間をすり抜けるように、澄んだ水が流れていた。
水流は止めどなく大量に、しかし驚くほどの静寂を保って下流へ向かっていく。重さを感じさせない軽やかさだった。
そっとしゃがみ込み、掬った。
絹のような滑らかさで、さらさらと指から落ちた。
三蔵はゆっくりと立ち上がり、苔むした岩々に触れて辺りを見回した。
書物では感じることの出来ない、大地を駆け巡る脈流。何とも言い難い不思議な感覚だ。
何者かの気配がした。
三蔵の後ろ、河上から、長身の影がふらりと現れる。
と、グラリと身体が傾き、小さな水音と共に、頭から流沙河の中に沈んだ。
「あっ!」
三蔵は慌てて荷物を置き、駆け寄った。
腕を引っ張る。頭を持ち上げて息が出来るようにする。水の性質からなのか、見かけによらず重い身体のように思われる。
「大丈夫ですか!?」
何とか岸辺に引き上げ、軽く身体を揺さぶって―――三蔵は動きを止めた。
男だった。
碧い長衣に碧いターバン、肩に掛かる黒青色の髪。腰には武器―――釵を下げている。
瞳を閉じた端整な顔は、間違いなく人間そのものだ。
だが、何かが違う。
(―――どうしたのでしょうか)
土に汚れた傷だらけの身体。旅の者にしては軽装すぎるし、格好も珍しい。どこの国の者だろうか。
何故か脳裏に、三蔵を見送った帝の顔が浮かんだ。
苦難を乗り越えて辿り着かなければ意味が無い、と護衛を拒む三蔵に、君主は拝見する度に恐れをあらわにしていたものだった。
ふと、男が目を開けた。
「…もし、」
二度、三度、目をしばたかせ、ゆっくりと起き上がった。
漆黒の瞳が三蔵を捉える。虚ろだった男の顔が瞬時に堅くなった。
おや、と違和感を抱いた。
「良かった。大丈夫なようですね」
「…貴方は」
明らかに警戒している様子に、三蔵の疑念はますます深まる。
「私は、三蔵と申します」
「三蔵…」
「ええ」
男が目を伏せた。何か思い詰めているような表情で、腰元の武器に手を触れては離すという動作を繰り返している。
沈黙に耐え切れず、三蔵が手を伸ばした。びくり、男の身体が跳ねた。
「怪我をなさっているのですね」
「…」
「宜しければ、手当てをさせていただけませんか」
「……結構です」
「しかし、」
突然、男が立ち上がった。
「―――触るな!」
差し出された手をバシリと跳ね除け、三蔵に背を向けた。微かに震える身体は、この河川の冷たさからだけではあるまい。
ふっと男が息を吐いた。
「私に関わってはいけない、さっさと立ち去った方がいい」
唖然とした三蔵を横目で見やると、どこか哀しそうな笑みを湛えた。
そして周辺が、気配が、うっすらと紺碧に色づいていく。
冷たい水の香り、氷の空気。
碧い衣が風に踊る。男が呟いた。
「そうでしょう、三蔵法師」
作品名:西遊記 the loneliness world 作家名:紅蓮