夏は暑いですから
「暑い」
「そーですか」
榛名の何度目か分からない呟きに、阿部もまた何度目かわからない答えを返した。
六畳ちょっとの狭い室内に男二人が転がっていればそれだけで暑苦しい。その上榛名は縦に長いし体温高いし筋肉ダルマだしで、できれば夏はあまり側に居たくない相手だった。
「暑い。タカヤ、暑くて死ぬ」
「しょうがないでしょ、クーラー壊れちゃってるんだから。あ、テメ、扇風機の向き固定してんじゃねーよ!首振りにしてください首振りに」
「えー。タカヤはあ、首振られるの嫌いなんじゃなかったけー」
フローリングの床に体を投げ出して、だらけた声で榛名はそう言った。いつもは聞き流せるようなふざけた台詞も、ただでさえ暑くて苛々している今は、本気でむかついてしまう。
「俺もう帰っていいですか」
「ダメ」
「だって俺が居たってなんにもしてないじゃないですか。あんたが珍しく宿題するっていうから付き合ってやってんのに」
阿部はテーブルの上のただ広げられただけの榛名の課題と、今日の部分はもう終えてしまった自分のノートを眺めながらため息をついた。
「だから帰りますね」
腰を浮かしかけた阿部のシャツの裾を、榛名がぐっとつかんで無理やり床へ引き戻す。
「だーめだって。外あんなに暑いじゃん。日射病とかなったら大変だろー」
「じゃあ宿題やって下さい」
「暑くて頭働かねー」
あんたの頭はいつも働いてないじゃないですか、と口に出しかけて阿部はすんでのところで引っ込める。売り言葉に買い言葉で、本気で思ってもいない憎まれ口を叩いてしまうのは自分の悪い癖だ。それに、このくそ暑い中で喧嘩なんかしたら余計熱くなっていい事無しだ。阿部は自分に冷静になるようにと言い聞かせた。
「なー、タカヤんち行っていい?」
「それはだめ」
「なんでだよ!」
「言ったでしょ。今親戚が来てて家中すげーうるさいんすよ。勉強なんかするどころじゃないっすよ」
「あー……、そういやなんか言ってたっけ」
ごろごろと床を転がりながら榛名は言う。言ってたっけじゃねえよ、人の話聞いとけよ。
今に始まったことではないとはいえ、およそ榛名という男は、人の話を聴かない。
自分で質問をしておいて答えを聞いてないなんてのは、日常茶飯事だった。ありえねえだろ、と阿部は思う。
前に一度そのことについて真剣に意見したことがあるが、徒労に終わった。なんせ返ってきた言葉が、「だって俺が聞いたことにタカヤがなんか返事してるなーって思ったら、それで満足しちゃうんだもんよ」だ。
何がだもんだ。ふざけんな。そういう口調は、年上には有効かもしれませんが、俺には効きません。ちょっと可愛いからって、ほだされたりはしません。
「あとさー、お前が一生懸命俺になんか言ってるとこ、すげえかわいい。んで、かわいいなーと思ってたら、話終わっててがっかりするんだよなあ。あータカヤのかわいいタイム終了かーって」
本当にこの人をなんとかして欲しい。かわいいタイムってなんだ。そんなものはこの地球上には存在しません。
とにかくこれ以上榛名にしゃべらせたら、自分が恥ずかしさで死にそうだったので、阿部はもういいですとだけ呟いて、不毛な問答を終わらせた。
その時のことを思い出すと、とても榛名に説教する気にもなれず、阿部は諦めたように天井を見上げて、はあと大きな息を吐いた。
「なあなあ」
「なんすか。宿題やる気になりました?」
もしそうなら、自分が教えてやってもいい、と思いながら阿部は言った。他の科目は難しいが、数学なら趣味で数Ⅱも数Bも勉強してるので(主に退屈な古文の時間の暇つぶしに)、ひとつ年上の榛名にだって教えられる。
「それはどうでもいいんだけどよ、タカヤ、いっこだけ教えて」
どうでもいいと言われて、阿部は何のためにここ来て暑いの我慢しているんだっけ、と思わず遠い目になった。
「あーもー、何でもいいですよ。一個でも何個でも聞いてください」
「マジで? じゃあ後でまた質問考えるから! とりあえずいっこな」
「はい」
「お前んちの親戚って、やっぱお前みたいにみんな垂れ目なの?」
「…………」
阿部はごろりと寝返りをうって榛名に背を向けた。もう、この人めんどくさい。真面目に相手するのが億劫になって、阿部はふて寝を決め込んだ。
「返事しねえってことは垂れ目なんか?」
ぴったりと床につけた腕から、体から、扇風機の低い振動音を感じる。風はずっと阿部には向けられないままで、じっとりと汗がにじんでくる。
「おーい、タカヤー。親戚一同垂れ目だからって、気にすんなよー」
うっせえ、そもそも俺はあんたが言うほど垂れ目じゃないし、気にしたこともない。大体今来てるのは母方の親戚だから、どっちかっていうと釣り目がちだっつの。心の中だけで反論して、阿部は沈黙を守る。
「なあなあ」
榛名がずりずりと床をこすって近づく気配がする。
「タカヤ、寝てんの?」
閉じたまぶたの下で、ほんの少し世界が暗くなったのが分かった。榛名が身をかがめてこちらをのぞきこんでいるからだ。
背中のすぐ側に榛名の腕がある。直接触れていなくとも、これだけ距離が近ければ、間の空気を通して榛名の体温を感じてしまうのだ。
榛名の大きな手のひらが阿部の額に触れる。親指でぐりぐりと眉間を押してくる。阿部は目をつむる時に眉間に力を込めるくせがあって、それを見ると榛名はこうやってその皺を伸ばそうとするのが常だった。
「ターカーヤー」
今度は頬をひっぱり始めた。はっきり言って痛い。こいつは投手の握力の強さというものについてもっとよく考えるべきだ、と阿部は思った。
いくらつついても反応を示さない阿部に飽きたのか、つまんねえの、と呟いて榛名が離れていった。覆いかぶさっていたものが無くなって、視界が明るくなる。阿部は少しだけまぶたを開いた。
それにしても暑い。開け放した窓からも風は入って来ず、レースのカーテンは揺れることを忘れたようにただ垂れ下がっている。グラウンドでの暑さなら我慢もできるが、室内にいてこの暑さというのは、なんだか理不尽にも感じてしまう。
網戸の向こうの空は青かった。四角い窓枠の中をゆっくりと白い雲たちが通り過ぎていく。それをぼうっと眺めているうちに、次第にまぶたが重く垂れ下がりはじめた。
すぐ後ろでは榛名が何か音を立てている。あの人は何をやっていても、うるさい。けれども、そのうるささも、眠りに落ちる間際ではどこかぼんやりと遠く聞こえた。
阿部が眠っていたのは、そう長い時間ではなかったようで、窓から差し込む光の角度にはほとんど変化がなかった。南向きの部屋というのも、こう暑くて冷房がない状態では考えものだ。夏の強い光は薄いレースなどではとても遮ることができず、部屋の中はさながらサウナのようだった。
やっぱり、うるさかろうと宿題がはかどらなかろうと、冷房の効く自分の家に連れて行ったほうがいいかもしれない。阿部がそう思った時、うひゃ、とか、ひひ、とか変な声が背後から聞こえた。こらえきれないといった風の笑い声が断続的に上がる。
不審に思って阿部が身を起こして振り返ると、榛名が扇風機に向かったまま左手に持った何かを動かしていた。
「……何してんすか」
「そーですか」
榛名の何度目か分からない呟きに、阿部もまた何度目かわからない答えを返した。
六畳ちょっとの狭い室内に男二人が転がっていればそれだけで暑苦しい。その上榛名は縦に長いし体温高いし筋肉ダルマだしで、できれば夏はあまり側に居たくない相手だった。
「暑い。タカヤ、暑くて死ぬ」
「しょうがないでしょ、クーラー壊れちゃってるんだから。あ、テメ、扇風機の向き固定してんじゃねーよ!首振りにしてください首振りに」
「えー。タカヤはあ、首振られるの嫌いなんじゃなかったけー」
フローリングの床に体を投げ出して、だらけた声で榛名はそう言った。いつもは聞き流せるようなふざけた台詞も、ただでさえ暑くて苛々している今は、本気でむかついてしまう。
「俺もう帰っていいですか」
「ダメ」
「だって俺が居たってなんにもしてないじゃないですか。あんたが珍しく宿題するっていうから付き合ってやってんのに」
阿部はテーブルの上のただ広げられただけの榛名の課題と、今日の部分はもう終えてしまった自分のノートを眺めながらため息をついた。
「だから帰りますね」
腰を浮かしかけた阿部のシャツの裾を、榛名がぐっとつかんで無理やり床へ引き戻す。
「だーめだって。外あんなに暑いじゃん。日射病とかなったら大変だろー」
「じゃあ宿題やって下さい」
「暑くて頭働かねー」
あんたの頭はいつも働いてないじゃないですか、と口に出しかけて阿部はすんでのところで引っ込める。売り言葉に買い言葉で、本気で思ってもいない憎まれ口を叩いてしまうのは自分の悪い癖だ。それに、このくそ暑い中で喧嘩なんかしたら余計熱くなっていい事無しだ。阿部は自分に冷静になるようにと言い聞かせた。
「なー、タカヤんち行っていい?」
「それはだめ」
「なんでだよ!」
「言ったでしょ。今親戚が来てて家中すげーうるさいんすよ。勉強なんかするどころじゃないっすよ」
「あー……、そういやなんか言ってたっけ」
ごろごろと床を転がりながら榛名は言う。言ってたっけじゃねえよ、人の話聞いとけよ。
今に始まったことではないとはいえ、およそ榛名という男は、人の話を聴かない。
自分で質問をしておいて答えを聞いてないなんてのは、日常茶飯事だった。ありえねえだろ、と阿部は思う。
前に一度そのことについて真剣に意見したことがあるが、徒労に終わった。なんせ返ってきた言葉が、「だって俺が聞いたことにタカヤがなんか返事してるなーって思ったら、それで満足しちゃうんだもんよ」だ。
何がだもんだ。ふざけんな。そういう口調は、年上には有効かもしれませんが、俺には効きません。ちょっと可愛いからって、ほだされたりはしません。
「あとさー、お前が一生懸命俺になんか言ってるとこ、すげえかわいい。んで、かわいいなーと思ってたら、話終わっててがっかりするんだよなあ。あータカヤのかわいいタイム終了かーって」
本当にこの人をなんとかして欲しい。かわいいタイムってなんだ。そんなものはこの地球上には存在しません。
とにかくこれ以上榛名にしゃべらせたら、自分が恥ずかしさで死にそうだったので、阿部はもういいですとだけ呟いて、不毛な問答を終わらせた。
その時のことを思い出すと、とても榛名に説教する気にもなれず、阿部は諦めたように天井を見上げて、はあと大きな息を吐いた。
「なあなあ」
「なんすか。宿題やる気になりました?」
もしそうなら、自分が教えてやってもいい、と思いながら阿部は言った。他の科目は難しいが、数学なら趣味で数Ⅱも数Bも勉強してるので(主に退屈な古文の時間の暇つぶしに)、ひとつ年上の榛名にだって教えられる。
「それはどうでもいいんだけどよ、タカヤ、いっこだけ教えて」
どうでもいいと言われて、阿部は何のためにここ来て暑いの我慢しているんだっけ、と思わず遠い目になった。
「あーもー、何でもいいですよ。一個でも何個でも聞いてください」
「マジで? じゃあ後でまた質問考えるから! とりあえずいっこな」
「はい」
「お前んちの親戚って、やっぱお前みたいにみんな垂れ目なの?」
「…………」
阿部はごろりと寝返りをうって榛名に背を向けた。もう、この人めんどくさい。真面目に相手するのが億劫になって、阿部はふて寝を決め込んだ。
「返事しねえってことは垂れ目なんか?」
ぴったりと床につけた腕から、体から、扇風機の低い振動音を感じる。風はずっと阿部には向けられないままで、じっとりと汗がにじんでくる。
「おーい、タカヤー。親戚一同垂れ目だからって、気にすんなよー」
うっせえ、そもそも俺はあんたが言うほど垂れ目じゃないし、気にしたこともない。大体今来てるのは母方の親戚だから、どっちかっていうと釣り目がちだっつの。心の中だけで反論して、阿部は沈黙を守る。
「なあなあ」
榛名がずりずりと床をこすって近づく気配がする。
「タカヤ、寝てんの?」
閉じたまぶたの下で、ほんの少し世界が暗くなったのが分かった。榛名が身をかがめてこちらをのぞきこんでいるからだ。
背中のすぐ側に榛名の腕がある。直接触れていなくとも、これだけ距離が近ければ、間の空気を通して榛名の体温を感じてしまうのだ。
榛名の大きな手のひらが阿部の額に触れる。親指でぐりぐりと眉間を押してくる。阿部は目をつむる時に眉間に力を込めるくせがあって、それを見ると榛名はこうやってその皺を伸ばそうとするのが常だった。
「ターカーヤー」
今度は頬をひっぱり始めた。はっきり言って痛い。こいつは投手の握力の強さというものについてもっとよく考えるべきだ、と阿部は思った。
いくらつついても反応を示さない阿部に飽きたのか、つまんねえの、と呟いて榛名が離れていった。覆いかぶさっていたものが無くなって、視界が明るくなる。阿部は少しだけまぶたを開いた。
それにしても暑い。開け放した窓からも風は入って来ず、レースのカーテンは揺れることを忘れたようにただ垂れ下がっている。グラウンドでの暑さなら我慢もできるが、室内にいてこの暑さというのは、なんだか理不尽にも感じてしまう。
網戸の向こうの空は青かった。四角い窓枠の中をゆっくりと白い雲たちが通り過ぎていく。それをぼうっと眺めているうちに、次第にまぶたが重く垂れ下がりはじめた。
すぐ後ろでは榛名が何か音を立てている。あの人は何をやっていても、うるさい。けれども、そのうるささも、眠りに落ちる間際ではどこかぼんやりと遠く聞こえた。
阿部が眠っていたのは、そう長い時間ではなかったようで、窓から差し込む光の角度にはほとんど変化がなかった。南向きの部屋というのも、こう暑くて冷房がない状態では考えものだ。夏の強い光は薄いレースなどではとても遮ることができず、部屋の中はさながらサウナのようだった。
やっぱり、うるさかろうと宿題がはかどらなかろうと、冷房の効く自分の家に連れて行ったほうがいいかもしれない。阿部がそう思った時、うひゃ、とか、ひひ、とか変な声が背後から聞こえた。こらえきれないといった風の笑い声が断続的に上がる。
不審に思って阿部が身を起こして振り返ると、榛名が扇風機に向かったまま左手に持った何かを動かしていた。
「……何してんすか」