RE.
(前)
グラウンドに着いた時、いつもより車が多いな、と思い、次いでああ今日は最後の日だったか、と元希は思いだした。
気の早い保護者たちは、練習が始まる前だというのに、もうフェンスの向こうの空き地に陣取ってビデオだのデジカメだのを取り出している。今レンズを構えても、映るのはトンボを持って整備をしているチビたちばかりだが、そんなものでさえ何かの記念になると思っているのか、彼らは談笑しながらレンズを覗き込んでいた。
元希がこの戸田北リトルシニアに来たのは去年の秋のことだった。それから一年がたち、元希は中学三年生になり、そして今日がこのシニアチームで過ごす、最後の日だった
更衣室の中は奇妙に浮かれた空気が満ちていた。黙々と着替える元希の後ろでは、お互いのエナメルバッグに寄せ書きをしあったり、思い出話に花を咲かせたりして盛り上がっている。
その輪に加わることもせず、ストッキングを履きながら元希が考えていたのは、これからの自主練についてだった。三年は夏で引退のチームも多い中で、戸田北リトルシニアは晩秋に引退式という慣習になっている。おかげで元希は新チーム発足後もそれまでとほとんど変わらず練習を続けることができた。
変わったことはといえば、夏以降は隆也が新チームでバッテリーを組む投手との投球練習を優先するようになったために、元希の投げ込みの時間が減ったことくらいだった。
それはそれで、その分を高校野球に対応するための体づくりのメニューに切り替えたから、別段不満はない。成長線の閉じない今、無理な筋力トレーニングはするつもりはないが、出来る範囲での筋力増強は図っておきたいところだ。高校入学までの半年近くある時間を無駄に過ごすつもりはなかった。
推薦入学でも決まっていれば、その高校の練習に今のうちからでも参加することはできるだろうが、元希はスカウトというスカウトを断っていたために、それもできそうにない。元希が進学を決めた高校は、スポーツ推薦での採用をしていないので、一般入試を受けるしかないのだ。
怪我からのリハビリだって、自分でやった。今更一人でする自主練に不安があるわけではない。けれども、一人での練習だけでは、どうしても実戦感覚が鈍ってしまう。せめてキャッチボールの相手くらいは欲しかった。
「元希! お前も書いてくれよ!」
思考の海に沈んでいた元希の意識は、チームメイトの声で現実に浮上した。油性のサインペンをこちらに差し出しながら、相手は笑っている。こいつは、それなりにいいやつだった、と元希は思った。
「つーか、気ぃ早くね? 引退式は練習の後だろ」
「まあまあ、そう言うなって。今日が最後だーって思ったら、こういうことでもしてねえと、落ち着かなくなったんだよ」
ふうん、と鼻を鳴らしながら、元希はサインペンを受け取った。キャップを外して、一体何を書けばいいのだろうと思案する。
既に書き込まれたメッセージは、別れを惜しむもの、将来について書いたもの、落書きのようなイラストなど、様々だ。そのどれとも、自分の距離は違う気がする。
このチームのやつらは大体みんないいやつだった、と元希は思う。けれども、同時に最後まで戸田北リトルシニアというチームを「自分のチーム」とは思えなかった、とも感じていた。
しばらく考えたあと、元希はぐちゃぐちゃとペンを走らせた。
「できた」
「お、サンキュ! ……ってなんだこれ」
元希が書き込んだ部分には、幾何学模様のような線の塊がある。
「サインだよ! 俺ぜってープロになるし、有名になるし。そしたらお前、皆から羨ましがられるぜ!」
チームメイトはしばらくその元希のサインを凝視したあと、爆笑した。げらげらと大きな笑い声を上げるので、更衣室にいた他の人間まで何事かと集まってくる。
「おい、何がおかしいんだよ!」
「や、だって、サインって……!」
笑いの止まらないチームメイトの手元を覗き込んで、他の一人がぶはっと吹き出してから言った。
「隆也が元希はサインの練習してるって言ってたけど、ほんとだったんだな」
「え、マジで?」
「元希のサイン? どれどれ」
「あー、俺にも見して!」
あっという間に人だかりができ、元希はその中心で顔を赤くして怒鳴った。
「お前らうっせーよ! サインの練習くらい普通するだろ!」
いやしねえよ、俺したことある、まじで? などと騒いでいると、入り口の扉が開き、監督が顔を見せた。
「おおい、そろそろ始めるぞ」
途端に更衣室の中は慌しくなる。荷物を片付けて、準備のできた者からばたばたと外へ飛び出していった。元希もロッカーの中にバッグを投げ込んで後に続く。全員が出るのを入り口で待っていたらしい元キャプテンは、元希が来るとニカっと笑ってみせた。
「今日は、隆也はずっとお前と練習だって」
「あ?」
「監督がそうしろってさ。最後だし、思いっきり投げてやれよ」
それだけ言うと、彼は元希の肩を軽く叩いて駆け出していった。元希はその姿を見るともなしに追いかける。
目の前には一年間を過ごしたグラウンドが広がっていた。後輩たちは整備を終えて既にアップを始めている。遅れた三年がその中に加わっていき、秋空の下のグラウンドは一気に賑やかになった。
その中にいる小さな後ろ姿は、探さなくてもすぐに分かる。練習着には背番号などついていないのに、不思議と最初に目が留まるのがその背中だった。
ずっと見つめてたからだろうか、不意に視線の先のユニフォームが振り返った。黒く丸い瞳の中に元希の姿をおさめると、帽子を取って軽く頭を下げる。
最後? 最後だって?
隆也の目にも、その表情にも、感傷めいたものはまるで見当たらなかった。いつも通りの、どこか不機嫌そうにも見える真面目な顔つきで、元希を待っている。
隆也がそんな事を考えているとは思わないが、もしも少しでもあの年下のキャッチが「今日が最後だから」などと言いだそうものなら、とても面白くない、と元希は考えた。