RE.
最初の一球を受けたあと、隆也は何か考えるような間を置いてから返球した。次の五球では首をかしげ、十五球投げたところでとうとう榛名の元まで駆けてくる。
「どうしたんですか」
マスクをかぶってキャッチャーボックスにいる時は一丁前に捕手らしく見えるが、そのマスクを取ってしまうと途端に隆也は幼い印象になる。丸い頬の線も、ぐりぐりと大きな目も、どこもかしこもガキっぽい、と元希は思った。
身長だって、伸びてはいるらしいが、元希自身も成長しているために二人の差は縮まらない。初めに会った時からほとんど変わらない目線の高さで、元希は隆也を見下ろした。
「どうって、なにが」
「調子は……悪くなさそうですよね」
「おう。分かんだろ」
組んで一年近くにもなれば、元希の調子の良し悪しなど隆也にはつつぬけも同然だった。側にいる時はいつも、隆也のアンテナが元希を触っている感じがする。大事にされているという感覚がふんわりと空気に溶け込んでいるように元希には思えた。それが時に煩わしくも、うれしくもある。
「なら、気のねー投球はやめて下さい。意味ねえし」
「んだよ……」
「今日で引退だからって、ナーバスになってるわけでもないんでしょ」
あんたのことだし、と隆也は感情のこもらない声で言った。確かにそれはその通りだった。
リトルシニアのチームを引退したからといって野球をやめるわけではない。ここは通過地点のひとつに過ぎず、元希の野球はこれからも続いていく。最後最後とことさら騒ぎ立てるようなことでもない。
「おめーはどうなんだよ」
「は?」
「だっから、お前はどう思ってんだっての。今日が最後だとか、考えてるわけ」
元希が気になっているのはそこだった。他のやつらならばともかく、自分の球を受けている捕手が、それも隆也が、そんなことを考えているのは嫌だった。
なぜ嫌だと感じるのか、ということにまでは元希の考えは及ばない。ただ漠然と気に食わないと感じた衝動だけで、隆也にそう尋ねていた。
問われた隆也はほんの少し驚いたように目を見張った後、笑う。
「まさか。そんなわけないでしょ」
ああ、そう、と返す声が、ちゃんと愛想なく出せただろうかと思いながら、元希は隆也から視線を外した。望む通りの答えと、久しぶりに見る隆也の笑顔がうれしいような気がして、困ってしまう。素直に喜んだ姿を見せるのは、なんだか照れくさくて出来なかった。
「あー……、隆也」
「はい」
「お前、ここの練習ない日はどうしてんの」
そう聞きながら、あれ、そんなことも知らなかったっけ、と元希は思った。もしかしたら一度くらい聞いたことはあるのかもしれないが、覚えていない。元希は興味のないことにはまるで記憶力が働かないタイプの人間だった。そう、興味がなかった。元希の前に座って、球を受けている時以外の隆也のことには。
「学校の陸上部にまぜてもらって走ってますけど」
「毎日?」
「朝練はそうですね。午後練はシニアのない日だけです。それがどうかしましたか」
「それさ、週に一日くらい休めねえ?」
は、と隆也は息を吐いた。
「……なんでですか」
先ほどの返答に気を良くしていた元希は、隆也の表情が強張っていることには気がつかなかった。
「自主練付き合えよ。おめーも、感覚鈍らせたくねーだろ?」
そうだ。今日が最後ではないのなら、隆也は自分を追って高校までついてくるはずだ。その時にまるで元希の球が取れなくなっているようでは困る。
元希は当然隆也が頷くだろうと思って言ったので、ため息をついて続けた隆也の言葉に目を丸くするはめになった。
「お断りします」
「えっ」
「話がそれだけなら、さっさと投球練習に戻りましょう。時間の無駄ですし」
隆也は淡々と言った。
「なんでだよ!」
「まだ十五球しか投げてないじゃないっすか。全体練習までに残りの球数投げようと思ったら、ギリギリですよ」
「じゃなくて! 俺と自主練するのがダメな理由!」
元希が叫ぶと、隆也はああ、とつまらなそうな声をあげた。
「キャッチボールの相手くらい、別に俺じゃなくてもいいじゃないですか。中学の部活で一緒だった人とか」
「あ、そっか」
リハビリの後も、元希が野球部に戻ることは終ぞ叶わなかった。けれども、引退したあとの野球部の連中とその辺の空き地でキャッチボールをしていたとしても、何ら咎められることはないはずだった。
「それに、あんたの球取ってる暇があったら、俺はもっとあいつの球受けたいですし」
そう言って隆也が視線を走らせた先には、新チーム発足以降、エースナンバーを背負うようになった二年生投手がいた。元希がいる間は目立つことがなかったが、そう悪い投手ではない、というのが隆也の評価らしい。
「おっまえ、そういう言い方があるか! ナッマイキ!」
小さな頭を掴んでやろうと伸ばした手を、ふいと身を返して隆也は避けた。元希のやることも、その呼吸も分かりきっている、とでも言いたげな動作だった。
「勝ちたいんです」
頑な目をしていた。隆也が元希の前に座る時は、いつもこの目をしていたな、と当たり前に受け取っていた事実を改めて実感する。勝ちたいと、ただそれだけに貪欲な瞳が元希は嫌いではなかった。もう少し正直に言えば、かなり気に入っていた。
「……わぁったよ」
元希はがしがしと頭をかいた。
「そん代わり、言ったからには勝てよ。あと、今より下手になってたら、承知しねーかんな」
「当然でしょ」
隆也が強く頷いたので、元希はすっかり満足した。ぴったりと地面につけた足の裏あたりから、じわりとこみ上げてくるものがある。それは上へ上へと登っていき、元希の心臓をとくとくと鳴らして興奮の血液を指先まで送り込んだ。
こいつがもっと上手になる。もっと強くなる。強くなったこいつに投げる俺は、もっともっと強くなっている。
思わず唇の端がつり上がる。面白い、と思った。
「続き、やりますよ」
隆也はミットの中からボールを取り出し、腹の辺りでごしごしとこすったあと元希に手渡した。
「おー」
「変な気合いとか入れなくていいですから、いつも通りで」
「へーへー」
果たして本当に分かっているのか、とでも言いたげな目で元希を見てから、隆也はマウンドを駆け下りていった。これが最後ではないが、これからしばらく元希の前に立つことのない姿が、そこにはあった。キャッチャーボックスに隆也が入る、腰を下ろして左手を構える。
高校野球をやるぞ、と元希は思った。これから俺は高校野球をやる。今より強くて面白え野球をやる。
追いかけてくるのなら、今度は「俺の」チームで、お前と一緒に組んでやるよ。
振りかぶる少し前に、元希が思い描いていたのは、そんな若くて傲慢な未来だった。