RE.
榛名は、断られるとは微塵も思っていなかった、という顔で驚きの声をあげる。それを見て、隆也は呆れたし、榛名を心底馬鹿な男だと思った。
けれども、馬鹿なのは榛名だけではないのだ。いつでも榛名が何かを言えば、それに隆也が頷くのだと信じ込ませるような態度を取ってきた隆也自身もまた、どうしようもない馬鹿だったのだ。
隆也が冷静に、キャッチボールの相手くらいなら他にもいるだろうと指摘すると、榛名はたった今気がついた、という表情になって、あ、そっかと頷く。
そうだ、ただの練習道具なら、それが隆也である必要はない。そんなことに付き合うより、隆也にはもっとやりたいことがあった。
「あんたの球取ってる暇があったら、俺はもっとあいつの球受けたいですし」
正直にそう言うと、榛名は生意気だと言って手を伸ばしてくる。大きな手の平が見えて、隆也はとっさに身をかわす。その手に撫でられたことが、そう数は多くないが、確かにあった。それをうれしいと思ったことも。
けれども、それも今では遠い昔の話に思えた。今は、その手が煩わしい。一刻も早く忘れるべきあたたかさだった。
隆也は元希をまっすぐに見上げる。
「勝ちたいんです」
このチームで。俺の、バッテリーで。俺の野球で。
もしも、榛名が今、あの時のように、つまらなそうな声で、泣くほどのことかよ、と吐き捨てた時のように、隆也のこの思いを切り捨てたなら、と隆也は期待した。
そうしたら俺は、本当にこの人を見限れる。
榛名のことは、チームメイトとしても、エースとしても、とても認められない。それでも、同じ野球をやる人間として、榛名の才能と努力を認めないわけにはいかなかった。認められない自分ではいたくなかった。なぜならば、隆也は野球が、とても好きだったからだ。
「……わぁったよ」
榛名は、どこかきまり悪げな表情でそう言った。
「そん代わり、言ったからには勝てよ。あと、今より下手になってたら、承知しねーかんな」
隆也の技量のことを、榛名にとやかく言われる理由はない。けれども、隆也は負けるつもりも、下手になるつもりも勿論なかったから、頷いた。
「当然でしょ」
ちょうどその時、向かい合った榛名の肩越しに、ブルペンで投球練習をしている現エースの姿が目に入った。今日は隆也が受けられないので、後輩の捕手を壁に投げている。投げる球が、いつもよりも生き生きとミットに飛び込んでいくように見えるのは、気のせいだろうか。
ああ、本当に、こんな茶番は早く終わらせなくては。
「続き、やりますよ」
隆也が前を向いて進んでいくために、榛名の存在は邪魔だった。
紅葉の盛りをすぎた葉は今は黒ずんでいて、それが風に煽られて散っていくのを見れば、もう冬が駆け足でやってきているのだと分かった。
強く吹き付ける風が落ち葉と、卒団生たちの抱えた花束から花びらを奪って舞い上げる。暗く重い雲で塗り固められた空に踊るそれらを見つめている隆也を呼ぶ声があった。
声の主が誰なのかはすぐに分かる。だから隆也は、その場を動かず、ただじっと視線を向けただけだった。
二人の距離は榛名の歩幅で5、6歩ほども離れているのに、榛名も隆也も、それ以上近づこうとはしない。
「隆也、卒業オメデトウ、は」
言葉を届けるために、榛名が大きく声を張り上げる。意地を張っていることは、お互いに筒抜けだった。
「卒業じゃなくて卒団でしょ!」
律儀に訂正を促す隆也に榛名は舌打ちをする。
「どっちだっていいだろ!オメデトウ、は!」
怒鳴り合う様な二人の声はグラウンド中に響いていて、チームメイトや保護者たちが何事かと視線を向けてくる。
そして、声の主が榛名と隆也だと分かるとすぐに笑顔になってめいめいの会話に戻っていった。
二人のバッテリーの間に喧嘩や怒声が耐えないのも、そのくせチームの中でもずっと寄り添っていたのも、もうみんな知っているのだ。
隆也はひゅうを息を吸い込む。冷たい空気がひんやりと体の中に入っていって、そのせいで胸の奥の熱が余計に感じられるようだった。
「おめでとうございます、元希さん!」
きっちりと身を折ってそう叫ぶ。やっとだ、と隆也は思った。
これで、終わる。終わる。終わる。この身の内の熱さと冷たさをぐるぐるかき混ざられて、泣きたくなるような衝動がこみ上げてくるのも、全部、全部終わる。
ん、と隆也の声に満足げに応えた榛名は、なかなか顔を上げようとしない後輩をいぶかしんでいるらしかった。
「泣いてんの?」
そんな、馬鹿なことを聞いてくる。
泣くほどのことなんて、何もない。何もなかった。最初から、ずっと、榛名にとって、このチームでは、泣きたくなるほどに思いをかけるものなど、何もなかったのだ。
だというのに、隆也ばかりが、喉元までこみ上げそうになる嗚咽に似たものをこらえているなんて、滑稽でしかない。だから、隆也はそんな自分のことは無視をした。
「タカヤ!野球、続けんだろ!」
榛名の言葉に、隆也はようやく顔をあげた。
多分、これまでで一番、強い目で榛名を睨みつけてから答える。
「当たり前でしょ!」
隆也の答えに、榛名は破顔した。曇り空の下には似合わないほどの、まぶしいような顔だった。
「なあ、俺がどこ行くか知ってるか」
「は?」
「コーコー!」
隆也はぎゅっと眉をしかめる。
「知ってますよ!」
両の拳をつよく握って、地面に足を踏ん張って、どこか必死な様子で隆也は叫んだ。榛名は、たったそれだけのことをどうしてそうも力を込めて言うのだろう、とでも問いたげに、けれども同時に、そんな隆也の様子を面白がるような顔になって言った。
「じゃあ、いいよ」
それならいい。榛名はそれだけ言うと、背を向けた。
さようならの言葉を言わないのも、言わせないのも、榛名の思い上がりだ、と隆也は思った。
もうその背中は追わない。今日ここに、全部置いていくのだ。
そうして、今度こそ、俺の野球をやるのだ、と強く思う。踏み出す足は、未来に向けるためのものだった。
それが、二人の、バッテリーの最後だった。