RE.
(後)
三年の引退式当日のその日も、隆也の頭の中は今日の投球練習のことでいっぱいだった。新チームになってまだ数ヶ月、やりたいことや試したいことが山ほどある。時間がいくらあっても足りないくらいだ。
その時隆也は焦っていた。それまで、隆也はほとんど元希の専属のような形で過ごして来た為に、新しく組むことになった投手とのコミュニケーションが圧倒的に足りていない。そのせいなのかどうか、彼は隆也と組むとあまり調子が上がらないようだった。
なにか自分にまずい部分があるのだろうか、と思って尋ねてみても、何でもない、だとか、タカヤは悪くない、だとかいう言葉が返ってくる。
それ以上問い詰めたとしても、かえってまた調子を崩しそうで、隆也は何も言えなかった。つくづく投手とは、難しい生き物だと思う。彼らはいつも、隆也には見えない何かを見ているような気がした。
結局隆也に出来るのは、これまでもそうだったように、懸命に野球をやることだけだった。とにかく、少しでもたくさん、すこしでも充実した練習をする。そうして早く手に入れたかった。ちゃんとしたバッテリーの関係を。
だから、ユニフォームに着替え終わってすぐに新エースと共に監督に呼ばれ、今日の練習は榛名と組むように、と告げられた時、隆也ははっきりと失望した。ああ、貴重な一日が、榛名の思い出づくりなどで費やされてしまうのか、と思った。
「お前は納得してんの」
監督室を出てグラウンドに向かう途中、隆也は硬い声で尋ねた。その問いに、隆也の投手はこだわりのない表情で頷いて言う。
「なんで? 別にいいじゃん、今日ぐらい」
「……俺は、お前と練習したかったよ」
メニューだって考えてたのに、と隆也が言うと、彼は複雑な顔で笑った。
「俺とならこれからいくらでもできるじゃんか。元希さんとは今日が最後なんだからさ」
「別に、最後とか、関係ねえだろ」
監督もこいつも、どうして榛名などに気を使うのだろう、と隆也は思った。他の先輩たちならばともかく、どうせ榛名は思い出など欲しがっていないというのに。
隆也の言葉に、彼は得たりといった表情を浮かべた。
「ああ、そっか。お前にとってはそうかもな」
「だったら……」
「つっても、シニアでやるのは、やっぱ最後じゃん。いくらお前が高校行っても元希さんとバッテリー組むつもりでもさ」
「は?」
言われた意味が分からなくて、隆也は目をしばたたいた。数瞬遅れてようやく誤解されていることに気がついて、舌打ちをしたくなる。
「それに、元希さん喜ぶぜ。最近お前に投げらんなくて溜まってたんじゃねえ?」
笑いながらそう言うチームメイトに、隆也は、どうだか、と肩をすくめてみせた。
「さあ。あの人はそういうの、あんま気にしてねえと思うけど」
投球練習の時間が減ったことで榛名が不満を漏らしたことはない。練習メニューは高校野球へ照準を向けたものへ変えたらしく、今は筋トレや走り込みに重点を置いているようだった。練習の内容が変われば、使う練習道具も変わる。つまりは、ただそれだけのことだ、と隆也は考えていた。
「なんだ、淋しがってるのは隆也のほうだったのか」
隆也の無愛想にも聞こえる返事をどう受け取ったのか、新しいエースは茶化すような声を出した。
「そうだよなー、あれだけ一生懸命追っかけてたんだもんな。やっぱり元希さんがいなくなるのは淋しいよな」
瞬間、隆也の腹がかっと沸騰し、そしてすぐに苛立ちは情けなさに変わった。自分があんな男を惜しんでいるように見られるのも嫌だったし、新しいチームで、新しいバッテリーでやっていこうとしている気持ちをまるで理解してもらえていないのも、やるせなかった。
隆也が目に真剣な力をこめて見ると、相手の顔からは笑いが消えた。
「なあ、今のエースはお前なんだ。あの人は関係ない。俺、お前とバッテリーになりたいんだよ」
それは分かってくれ、頼むよ、と隆也は嘘のつけない声で言った。隆也の投手は、困った顔をしていた。なぜそんな顔をするのだろう。
バッテリーを組むのって、こんなに難しいことだっただろうか、と隆也は思った。ただ投手がいる、その球を捕手が受ける。それだけで良かった隆也の世界は変わってしまっていた。
目の前の口からは、うん、ごめん、という声が転がり出てきていた。隆也の聞きたい言葉ではなかった。
その日の練習が始まってすぐに、隆也は榛名の球に力がこもっていないことに気がついた。榛名からは、調子の悪い時の独特の気配が出ているわけでもないのに、おかしなほどゆるんだ球を投げてくる。
最近少しずつ増えてきた筋肉に合わせて投球フォームをいじっているからそのせいかとも思ったが、それにしてもすっきりしない、どっちつかずの球だった。十五球まで様子を見たところで、隆也は立ち上がった。
近くで見る榛名はよく分からない顔をしていた。怒りたいような、不機嫌ぶりたいような、困ってしまったような、そんなどの感情も乗せたくないような、どうにもならない顔だった。少なくとも、野球をする時の顔ではない。
どうかしたのか、調子が悪いのかといくつか言葉を交わすうちに、榛名が馬鹿なことを言った。
「おめーはどうなんだよ」
早口で一息のうちに榛名がそう言ったので、何を言われたのか分からず、隆也は聞き返す。
「は?」
「だっから、お前はどう思ってんだっての。今日が最後だとか、考えてるわけ」
どうにもならない顔が不機嫌に傾いていた。不満そうだった。榛名のこんな顔は見慣れている。きっと、無表情の次によく見た表情だ。それ以外の榛名のことは、たとえばきまぐれに見せた笑顔だとか、そんなことは今の隆也には遠くて思い出せない。
隆也はおかしかった。榛名の口から「最後」などという言葉が出てくるのがおかしい。あまりにおかしかったので、思わず笑ってしまう。
「まさか。そんなわけないでしょう」
最後もなにも、自分と榛名はバッテリーになどなっていなかったじゃないか。ノーコンピッチャーとその壁。そんな二人に、最後なんて言葉は必要がない。始まりがないのだから、終わりもありえない。
榛名は続けて、なぜだか多少気まずそうな口ぶりで、隆也の普段の自主練習について尋ねてきた。今更そんな話をするなんて、笑ってしまう。
もっとも、隆也だって榛名がシニア以外の場所でどんな顔をしてどんな風に過ごしているのかなど、ほとんど知らないのだから、別に榛名を薄情だと責められる義理はない。
これでよく、自分たちがいいバッテリーだなどと一瞬でも錯覚できたものだ、と隆也は自分を嗤った。一年かけて隆也が得たものは、ノーコンピッチの相手を続けたおかげて随分と上達した捕球の技術と、投手を信用はしても、信頼してはいけない、という教訓だけだった。相手に思いを託すなど、もってのほかだ。
隆也の投手に対しての愚かな甘さを根こそぎ奪っていった男は、当たり前の顔をして、自分の自主練習に付き合え、と言った。しかも、言うにこと欠いて、「おめーも、感覚鈍らせたくねーだろ?」ときた。
「お断りします」
「えっ」