UNITE
何の変哲もない朝だった。うつらうつらとしては覚醒することを何度か繰り返し、その何度か目にオタコンはとうとう眠るのを諦めてノーマッドの鉄の天井をじっと見つめていたが、そんなことはここ数日ずっとだったので、つまりは何の変哲もない朝だった。
どれくらいぼんやりしていただろう。そのうちに二階から物音がして、サニーが起きてくる。そして飛行機の中にはあまり似つかわしくない鶏小屋へ向かい、産まれたての卵を取り出す。何の変哲もない光景だ。
「今日は、ソリッドちゃんがおやすみ」
サニーの小さなひとりごとががらんとした機内でやけに大きく響く。オタコンはそんな些細なことですら生まれる感傷をなんとかやり過ごすために目を瞑った。
ただ彼が居ない。それだけで、なんてヘンテツに満ちた朝なんだろう。
数度に渡って世界を救った英雄の最後の任務は、己の存在をこの世から消し去ること。そうして世界はまた何度目かの救いを得る。もちろんそんなことは世界中の人間には知らされない、知りようもない。極々一部の人間にしか打ち明けられなかったその真実を、オタコンは自分の中で持て余している。
本当は最期まで傍にいるつもりだった。彼を独りで逝かせたくなんてなかった。人の訪れることのない場所でひっそりと暮らし二人でその日を迎えられたら、そう思っていた。
しかし、その提案は彼に許されることはなかった。
「俺だけが消えればいいことだ、お前までつきあわせる訳にはいかない」
紫煙を燻らせながら、スネークは言った。傍に寄って煙草を取り上げる気にもならず、オタコンはただその横顔を瞬きもせず見つめた。深い皺が刻まれた彼の顔は今までに見たことがないほど疲れきっていた。
「オタコン、これは俺の問題だ。お前に背負わせるべきものじゃない」
「そんなこと!」
「第一、」反論の言葉はさらに続く言葉で遮られた。
「俺が死に、俺の中の FOXDIEが活動を止めるまで誰とも関わることがないと本当に言いきれるか。それに、」
そこまで言って、彼はちらりと階段の先を見遣る。
「サニーはどうするんだ。独りにするわけにはいかないだろう」
オタコンは唇を噛み締める。スネークの言う通りだった。でも、それが正論であればあるほど悔しくてたまらなくなる。できるならば引き止めたい、できるならば傍についていたい。正しさなんてかなぐり捨ててしまいたいという思いとそれはただ自分のわがままでしかないのではという懸念が心の中で激しく拮抗していた。
「僕は……何をすればいい」
オタコンの息苦しさを搾り出すような声に、目を伏せていたスネークも思わず顔をあげる。
「僕はまた何もできないのか、大事な人を失うって時に!」
苛立ちを込めて、オタコンは机に置いていた手を叩きつけた。かたかたとパソコンが音を立てて揺れる。その悲痛な叫びを聞き、スネークは吸っていた煙草を灰皿に押し付ける。そしておもむろに立ち上がり、オタコンの方へ歩み寄った。
「これは俺の『任務』だ」
肘をつき、まるで祈るようなポーズをとっているオタコンの表情はスネークからはうかがえない。しかしその肩が小さく震えていることは隠しようがなかった。スネークはそっと手を伸ばしその少し薄い肩に触れる。オタコンの身体はびくっと震え、しかしすぐに弛緩した。それを認めるとスネークは穏やかに凪いだ声でオタコンに告げる。
「だから、お前には今まで通りここに居てほしい。いつもの『後方支援』というやつだ。それが……俺がお前に望む全てのことだ、オタコン」
彼を止める術などもう無い。そのことを確信し、オタコンはきつく目を瞑る。遠慮がちな手に肩を引き寄せられ、そのままそっと抱きしめられる。その行為はもうオタコンの心に言い知れぬ悲しみしかもたらさなかった。
「ハル兄さん、ハル兄さん」
小さな手がオタコンの肩を揺する。強く瞑っていた目蓋をゆっくりと開けると心配そうに覗き込むサニーの顔がそこにあった。ほとんど反射的に微笑んで、どうしたんだいと問いかける。
「もしかして、二日酔い? 大丈夫?」
「ああ、大丈夫だよ。僕よりも、きっと今頃ドレビンの方がひどい目にあってるはずさ」
身体を起こしながらオタコンは軽く肩を竦めてみせる。
昨日はメリルとジョニーのささやかな結婚式だった。みんな浮かれていた。特にドレビンは今までナノマシン制御のおかげで酔えなかった反動か、ハメを外してシャンパンをほとんど一人で二本も空けたのだ。オタコンはそれに少し付き合いはしたものの、結局最後まで酔うことはできなかった。
オタコンの答えを聞くと、サニーは今度はさっきとは別の困惑をその表情に浮かべた。最近サニーは以前より表情がころころと変わるようになった気がする。それはとてもいい傾向だ。
「じゃあ、あの……その」
「ん?」
首を傾げて言葉の先を促す。
「あ、目玉焼き、食べる?」
「そうだな」と考えるふりをしながら、オタコンは思う。きっと、この聡い少女が本当に聞きたかったことは目玉焼きのことなんかじゃなくて、もっと別のことなんじゃないのか。
スネークのことを彼女には伝えていない。それはスネークがオタコンに最後に頼んだことのひとつだった。今の彼女に自分の死を知らせてしまうのは早急に過ぎるだろうとスネークは言い、できるなら一生言わないでくれてもいいんだが、という小さな呟きがその後に続いた。サニーもいずれ大人になり、今の記憶もそのうちかすんでいくだろう。子どもの頃変な大人と一緒に居た気がする、ぐらいに思ってくれればいい。独り言の形式をとってはいたが、スネークは明らかに切願していた。
サニーには、スネークは旅に出たと話しておいた。だが彼女はその言葉を信じただろうか。その時は信じていたとしても、今も信じているだろうか。
どちらにせよ、こんな風に塞ぎこむ姿を見せてしまっては賢いあの子はきっと何かを察してしまうに違いない。はやく立ち直らなくてはいけない。きっとそれはスネークが望んでいたことでもある。
『どうか俺のことなどはやく忘れてお前はお前自身の新しい人生を歩め』
口には決して出さなかったが、身体中から発していたメッセージ。そんなことも分かってしまうぐらい長い付き合いだったことをオタコンは今更ながら思い知る。
「ハル兄さん、あの、いらないなら……」
オタコンがあまりにも長く押し黙っているのに焦れて、サニーがまた顔を覗き込んだ。
「ごめんごめん。じゃあ、もらおうかな」
オタコンの答えにサニーは少しほっとした様子で笑い、
「わかった、作ってくる」
と、二階へ駆けていった。
オタコンもソファから降りて、小さく伸びをする。機内をぐるりと見回すと、先ほど耳で感じたようにやはりそこはがらんとしていた。たった一人居ないだけでこうも変わるものか、とまたも感傷に襲われそうになるのをぶんぶんと頭を振って耐えた。
どれくらいぼんやりしていただろう。そのうちに二階から物音がして、サニーが起きてくる。そして飛行機の中にはあまり似つかわしくない鶏小屋へ向かい、産まれたての卵を取り出す。何の変哲もない光景だ。
「今日は、ソリッドちゃんがおやすみ」
サニーの小さなひとりごとががらんとした機内でやけに大きく響く。オタコンはそんな些細なことですら生まれる感傷をなんとかやり過ごすために目を瞑った。
ただ彼が居ない。それだけで、なんてヘンテツに満ちた朝なんだろう。
数度に渡って世界を救った英雄の最後の任務は、己の存在をこの世から消し去ること。そうして世界はまた何度目かの救いを得る。もちろんそんなことは世界中の人間には知らされない、知りようもない。極々一部の人間にしか打ち明けられなかったその真実を、オタコンは自分の中で持て余している。
本当は最期まで傍にいるつもりだった。彼を独りで逝かせたくなんてなかった。人の訪れることのない場所でひっそりと暮らし二人でその日を迎えられたら、そう思っていた。
しかし、その提案は彼に許されることはなかった。
「俺だけが消えればいいことだ、お前までつきあわせる訳にはいかない」
紫煙を燻らせながら、スネークは言った。傍に寄って煙草を取り上げる気にもならず、オタコンはただその横顔を瞬きもせず見つめた。深い皺が刻まれた彼の顔は今までに見たことがないほど疲れきっていた。
「オタコン、これは俺の問題だ。お前に背負わせるべきものじゃない」
「そんなこと!」
「第一、」反論の言葉はさらに続く言葉で遮られた。
「俺が死に、俺の中の FOXDIEが活動を止めるまで誰とも関わることがないと本当に言いきれるか。それに、」
そこまで言って、彼はちらりと階段の先を見遣る。
「サニーはどうするんだ。独りにするわけにはいかないだろう」
オタコンは唇を噛み締める。スネークの言う通りだった。でも、それが正論であればあるほど悔しくてたまらなくなる。できるならば引き止めたい、できるならば傍についていたい。正しさなんてかなぐり捨ててしまいたいという思いとそれはただ自分のわがままでしかないのではという懸念が心の中で激しく拮抗していた。
「僕は……何をすればいい」
オタコンの息苦しさを搾り出すような声に、目を伏せていたスネークも思わず顔をあげる。
「僕はまた何もできないのか、大事な人を失うって時に!」
苛立ちを込めて、オタコンは机に置いていた手を叩きつけた。かたかたとパソコンが音を立てて揺れる。その悲痛な叫びを聞き、スネークは吸っていた煙草を灰皿に押し付ける。そしておもむろに立ち上がり、オタコンの方へ歩み寄った。
「これは俺の『任務』だ」
肘をつき、まるで祈るようなポーズをとっているオタコンの表情はスネークからはうかがえない。しかしその肩が小さく震えていることは隠しようがなかった。スネークはそっと手を伸ばしその少し薄い肩に触れる。オタコンの身体はびくっと震え、しかしすぐに弛緩した。それを認めるとスネークは穏やかに凪いだ声でオタコンに告げる。
「だから、お前には今まで通りここに居てほしい。いつもの『後方支援』というやつだ。それが……俺がお前に望む全てのことだ、オタコン」
彼を止める術などもう無い。そのことを確信し、オタコンはきつく目を瞑る。遠慮がちな手に肩を引き寄せられ、そのままそっと抱きしめられる。その行為はもうオタコンの心に言い知れぬ悲しみしかもたらさなかった。
「ハル兄さん、ハル兄さん」
小さな手がオタコンの肩を揺する。強く瞑っていた目蓋をゆっくりと開けると心配そうに覗き込むサニーの顔がそこにあった。ほとんど反射的に微笑んで、どうしたんだいと問いかける。
「もしかして、二日酔い? 大丈夫?」
「ああ、大丈夫だよ。僕よりも、きっと今頃ドレビンの方がひどい目にあってるはずさ」
身体を起こしながらオタコンは軽く肩を竦めてみせる。
昨日はメリルとジョニーのささやかな結婚式だった。みんな浮かれていた。特にドレビンは今までナノマシン制御のおかげで酔えなかった反動か、ハメを外してシャンパンをほとんど一人で二本も空けたのだ。オタコンはそれに少し付き合いはしたものの、結局最後まで酔うことはできなかった。
オタコンの答えを聞くと、サニーは今度はさっきとは別の困惑をその表情に浮かべた。最近サニーは以前より表情がころころと変わるようになった気がする。それはとてもいい傾向だ。
「じゃあ、あの……その」
「ん?」
首を傾げて言葉の先を促す。
「あ、目玉焼き、食べる?」
「そうだな」と考えるふりをしながら、オタコンは思う。きっと、この聡い少女が本当に聞きたかったことは目玉焼きのことなんかじゃなくて、もっと別のことなんじゃないのか。
スネークのことを彼女には伝えていない。それはスネークがオタコンに最後に頼んだことのひとつだった。今の彼女に自分の死を知らせてしまうのは早急に過ぎるだろうとスネークは言い、できるなら一生言わないでくれてもいいんだが、という小さな呟きがその後に続いた。サニーもいずれ大人になり、今の記憶もそのうちかすんでいくだろう。子どもの頃変な大人と一緒に居た気がする、ぐらいに思ってくれればいい。独り言の形式をとってはいたが、スネークは明らかに切願していた。
サニーには、スネークは旅に出たと話しておいた。だが彼女はその言葉を信じただろうか。その時は信じていたとしても、今も信じているだろうか。
どちらにせよ、こんな風に塞ぎこむ姿を見せてしまっては賢いあの子はきっと何かを察してしまうに違いない。はやく立ち直らなくてはいけない。きっとそれはスネークが望んでいたことでもある。
『どうか俺のことなどはやく忘れてお前はお前自身の新しい人生を歩め』
口には決して出さなかったが、身体中から発していたメッセージ。そんなことも分かってしまうぐらい長い付き合いだったことをオタコンは今更ながら思い知る。
「ハル兄さん、あの、いらないなら……」
オタコンがあまりにも長く押し黙っているのに焦れて、サニーがまた顔を覗き込んだ。
「ごめんごめん。じゃあ、もらおうかな」
オタコンの答えにサニーは少しほっとした様子で笑い、
「わかった、作ってくる」
と、二階へ駆けていった。
オタコンもソファから降りて、小さく伸びをする。機内をぐるりと見回すと、先ほど耳で感じたようにやはりそこはがらんとしていた。たった一人居ないだけでこうも変わるものか、とまたも感傷に襲われそうになるのをぶんぶんと頭を振って耐えた。