追々。
ばちっと意識が切り替わり、榛名は目を開いた。
視界に映るのは見慣れた天井で、先ほどまでの青空も砂埃のにおいも掻き消えてしまう。
小さくともった豆電球に視線が吸い寄せられて、榛名は呆然とただその明かりを見つめた。
ベルは次第に大きくなり、長く鳴り響いたあと、やがて諦めたようにふつりと沈黙する。
カーテンを通して薄い明かりが漏れていた。窓の向こうで鳥が鳴いていた。榛名は、天井を見上げたまま動けなかった。
ひとつ呼吸をするごとに、夢だったのか、という思いと、夢だったのだ、という確信が重なっていく。
タカヤは武蔵野には来ず、榛名の球を受けることはない。こちらの方が現実だった。
榛名は驚いた。自分は、自分で思っていたよりもずっと、タカヤと組みたいと、野球をしたいと思っていたようだ。
どっと後悔のような、やりきれなさがこみ上げ、榛名の胸を塗りつぶす。朝の重さに榛名は喘いだ。
タカヤの声を聞きたい、と思うが、同時にこの痛みは自分のものだ、とも思った。
「い……っ、てえ…………」
引き絞られるように胸が痛い。シニアの頃のように、当たり前の顔をしてタカヤが榛名の球を受けることは、榛名のキャッチとして向かい合うことは、今はもうないのだ。
高校生になってから再会して、ままごとのように始まった付き合いもいつしか本物の恋のようになっていて、タカヤはすっかり榛名のものになったように思っていた。
けれども、キャッチとしてのタカヤは、榛名は手に入れられないのだ。
その事が実はこんなにもつらいのだと、夢を見たせいで分かってしまった。
ふと、視界の隅に明滅する光が目に入り、榛名は重い頭を上げた。枕元に投げ出していた携帯電話がメールの着信を告げている。
この重苦しさが少しでも紛れればと思って榛名は手をのばした。タカヤからだった。
「雑誌、忘れて帰っちゃったんですけど、もう読み終わったのだから、すみませんが捨ててください」
着信時刻は昨日の夜、タカヤが榛名の部屋を出て1時間ほどたった頃だった。その時榛名はもう眠っていたので、気がつかなかったのだ。
頭をめぐらせて部屋を見回せば、メールの文面の通りタカヤが昨日持ち込んだ雑誌が床に投げ出されている。
変化球特集の号で、読みながらタカヤはしきりに三橋は三橋はと、自分の今の投手を自慢していた。
それでいて不意に顔を上げて、元希さん、元希さんのスライダーの握りって、どんな感じですか、なんて聞くものだから、榛名はうれしくなってわざわざボールを取り出してきてしまうのだった。
写真を見ながらふたりでプロの選手の握りを試してみてああだこうだと言い合い、じゃれあうようにしてお互いの手に触れる。
タカヤのかさついた硬い手のひらの感触を、懐かしいとは榛名は思わなかった。それをよく知ったのは、付き合い始めてからだ。
スライダーならシニアの頃タカヤに散々投げたが、間近にボールを握った手を見せたことはなかった、と榛名は気がつく。
こうしているのは、二人がバッテリーじゃなくなったからで、そのことをどう自分の中で位置づけたらいいのか、榛名にはまだ分からなかった。
分からないまま、気がつけば指がアドレス帳をスクロールさせていた。呼び出しのコール音が響くのを聞いて、ああ、かけちまった、と今更に思う。
どうしようかと迷う間にコールの音が途切れ、控えめな声が聞こえる。
「……はい」
タカヤの声だった。聞いてしまうともうどうしようもない。脈絡もなく、なあ、お前なんで武蔵野来なかった、などと問いただしたくなってしまう。
「なんですか? こんな朝早くから」
けれども、榛名は口に出しては別のことを言った。
「……雑誌」
「は?」
「取りに来いよ、今から」
「メール見てないんですか?」
「見たけど、来いよ」
電波に乗せてタカヤは長い息を吐いた。
「嫌です」
榛名は焦れた。俺が来いと言っている。だから、無茶でもなんでもタカヤは来なくちゃいけない。
「すぐ朝練なんで。じゃあ、もう切りますよ」
「ちょっと寄るだけだろ!」
「駄目です」
「なんでだよ!」
ああ、馬鹿を言っている、と榛名は分かっていた。
それでも、タカヤの口調があまりに迷いなく、にべもないので、つい反発したくなってしまうのだ。
タカヤは静かな声を出した。
「練習したいからです。大会だって近いでしょ。あんたと当たったら、思いっきりぶちのめしてやりたいですし」
だから、時間を無駄にできません。タカヤははっきりとそう言った。
電話越しに声を聞いただけなのに、タカヤのあのぎらりと光る目の輝きが見える気がした。
榛名の胸は震えた。
「……勝てると思ってんのかよ」
タカヤは即答した。
「負けるつもりはありません。俺は、いつだって、あんたを超えたいと思ってますから」
握っていた携帯電話が軋んで音を立てた。力がこもりすぎてしまったのだ。それぐらい、榛名にはたまらない言葉だった。
いつも届かないと思わせたかった。いつでも、タカヤの前に立ってタカヤが追いかけて来るのが気持ちよかった。
二人のバッテリーの時間はとうに終わり、なぜだか恋人の時間がはじまり、それでも変わらずタカヤは追いかけてきている。
これほど榛名を満足させることはなかった。
「おー、じゃあ、せーぜー、がんばれよ」
出来るだけ偉そうに聞こえるように出したつもりの声は、どこかはしゃいでいた。
「言われなくても、そうします」
それじゃあ、と言って通話を切りかけたタカヤは、何かを思い出したように、ああ、と呟いた。
「練習、終わったあとに」
「あ?」
「寄りますから。捨てないで取っておいてください」
会いに行きますから、とは言わないタカヤだった。
それでもそれがタカヤ一流の甘え方だと榛名はもう知っているので、笑ってうなずいた。