その夜は泣いていた
車中では沈黙が落ちていた。榛名は、手持ちぶさたに助手席のドアポケットを開けたり閉めたりした。その中を見るともなしに視線を落としていると、若いアイドルグループのCDばかりが入っていることが分かって、榛名は困惑する。
「なー、この車、お前の?」
榛名の問いに、阿部は顔を前に向けたまま答えた。
「な訳ないでしょう。俺、学生ですよ。これは家のです」
ふーん、と榛名は鼻を鳴らす。
「道理で、お前の趣味じゃなさそーなCDが入ってると思った」
「ああ、それ、母さんのです」
「おばさん、こういうのが好きなん?」
「ミーハーなんです。元希さんのことも、いつもかっこいいかっこいいって言ってますよ」
「へー、そりゃあ、ありがたい」
榛名は、阿部の母がきゃあきゃあとはしゃいでいる姿を想像して、頬をゆるめた。年の割に、と言っては失礼だが、どこか少女めいたところのある人で、榛名は嫌いではなかった。
「つうか、お前、音楽とか聞いたっけ」
「ほとんど聞きませんね。たまに、友達ん中でも音楽好きなやつがおすすめだってCD押し付けてきたりはしますけど……」
「だよなー。俺もさあ、打席立つ時、好きな曲かけさせてくれるっつうんだけど、なーんも浮かばねえから、適当に決めたもらった」
榛名がそう言うと、元希さんらしいですね、と阿部の横顔が笑った。それを見て、榛名は、こういう風なのなら、いいんかな、と思った。普通の先輩と後輩として、こんな風に他愛のない話をするだけなら、阿部とこれからも付き合っていけるのだろうか。けれども、それだけで収まるはずのない自分の気持ちも、よく分かっていた。
ほどなくして榛名の家の前に着いた。阿部は、榛名を見送りにわざわざ車を降りて、榛名の前に立つ。
「もう、聞き飽きたかもしんねーけど」
これが最後かもしれないなら、もう一度言っておこうと榛名は口を開いた。
「俺、タカヤが好きだ。そんで、また、前みたいに一緒にいたいって、思ってる」
昨日も聞いているはずなのに、タカヤは驚いた顔をした。
「なんでびっくりしてんだよ」
「や、昨日のは、酔ってて覚えてないかと……」
「忘れねーよ! つうか、お前、まさか俺が酔ってて訳わかんねーからめちゃくちゃ言ったとか、思ってねーだろうな!」
タカヤはすぐに返事はしなかった。それで、榛名はすっかり腹を立ててしまう。
「信じらんねー! 俺、ちょー本気だっつの! 酔っ払ってたからって、タカヤへの気持ち間違うわけねーだろ!」
榛名がまくしたてるのを、タカヤは困った顔で聞いていた。まさか、本気にしてもらえていなかったとは思っていなかったので、榛名はひどく傷ついた心地になった。
タカヤは、まだ困っている。その顔のまま、ゆっくりと口を開いた。
「……昨日、電話がかかってきた時、最初は取る気がありませんでした。けど、あんまり長く鳴らすから、あんたになんかあったのかと思って。そしたら、あん たじゃなくて秋丸さんが出て、動けないっていうから、心配したら、酒の飲みすぎだって言うし。俺、すげえ腹立って、説教してやるつもりで、迎えに行ったんです」
プロが何やってるんだって、叱りに行ったんですよ、とタカヤは言った。
「けど、元希さん見たら、なんか、駄目でした」
そこで、タカヤは笑った。眉を下げたまま、どうしようもない、とでも言うように笑っていた。
「野球が一番で、でも、俺も一番だったって、言ってくれましたよね、昨日」
榛名は頷いて、ゆうべタカヤに告げた言葉がちゃんと伝わっていたのだ、と分かってうれしくなった。タカヤはまっすぐに榛名を見上げて、続けた。
「どうしたらいいのかは、俺も、まだ分かりません。でも、両方一番のままでいられる方法がもしあるのなら……」
「……ある! 絶対、ある!」
榛名はほとんど反射的にそう答えていた。
今、何が起きている? タカヤは、もしかして、一番榛名が欲しい言葉をくれるのだろうか。
タカヤは榛名の目を見つめたまま、はい、と静かに頷いた。
「だから、その方法、一緒に探していきましょう。二人で、いっぱい考えたら、きっと見つかるはずです。あの時、俺が元希さんと別れようと決めたのも、一生懸命考えた結果でしたけれど、今なら、また別の答えがあってもいいって、思えます」
手に暖かな感触がして、ふと視線を落とすと、タカヤが榛名に触れていた。
「昨日、元希さんを見て、腹が立ってるはずなのに、そんなのもうどうでもいいくらい、うれしかったんです」
怒った顔するの、大変でした、とタカヤは続けた。榛名は、もう言葉が出なかった。
昨日はあふれる気持ちが好きだと言葉になって止まらなかったのに、今は、言葉にすらならない。
もどかしさをどうにかする方法を、榛名の本能はひとつだけ知っていて、次の瞬間にはタカヤを抱きしめていた。懐かしい匂い。懐かしい体温。懐かしい、タカヤの全部。
それらを、もう懐かしむのではなく、ずっと側におけるのだ。押し付けた胸の上で、タカヤがちいさく、会いたかったです、と呟く。俺も、と答えて抱きしめる腕に力をこめる。
涙の夜のあとには、雨上がりの美しい空が広がっていた。