理由はしらない
今日暇なんだろ、と言われたから、今友達と飯食ってるから無理です、と阿部は答えを返した。
「はあ?」
電話越しに聞こえた声は不機嫌に染まっていた。阿部は思わずむっとなって眉を寄せる。阿部が部活半休の日にどこで何をしていようと、意見されるいわれはないはずだ。
「そういうことですから」
じゃあ、と言って通話を切ろうとした阿部の耳に、馬鹿でかい声が飛び込んでくる。
「お前の暇な時間は、俺のもんだろ!」
当たり前のように告げられた言葉に、理解が追いつかなくて阿部は一瞬反論さえも忘れてしまう。
というよりも、分かることを頭が拒否した。こいつとしゃべるのは危険だ。
その直感が促すままに、阿部は「意味分かんねエ」とだけ呟いて電話を切る。そして、そのままボタンを強く押して携帯の電源を切った。
はあ、と知らず息が漏れた。一分にも満たないような会話だったのに、どっと疲れが押し寄せてきて、安っぽい椅子の背もたれに寄りかかる。
「……よかったわけ?」
テーブルの向かい側から花井が遠慮がちに問いかけてくる。阿部は手すりを掴んで体を起こし、座りなおした。
「ワリ。話、途中だったよな」
「それはいいけど、今の電話、切っちゃってよかったんか?」
「あー……、いいんだよ。どうせ大した用事じゃないんだし」
実際、今来いすぐ来いと呼びたてる割に、重要な用だった試しがないのだ。あんまりうるさいから渋々出て行ったら、ただ単にその辺をぶらついて、ろくに会話らしい会話もなく帰ることすらある。
そのことを思い出して苦い顔になる阿部に、花井は気遣うような視線を投げかける。それから、何かを言いかけて迷うそぶりで口を閉じたあと、また意を決したように口を開いた。
「彼女とかじゃねーの、今の」
「…………あ?」
阿部は眉間に深くしわを寄せ、目を眇めて花井を見返した。阿部をよく知っている者でなければ、ガンを飛ばされた、と思ってしまいそうな険悪な表情だった。
花井も、分かってはいても反射的に少し身を引いてしまい、それから、こいつに悪気はないんだから、と思いなおして言葉を続けた。
「会うとか会わないとか言ってたじゃん」
「それがなんで彼女になるんだよ。フツーに、友達とかかも知んねーだろ」
「じゃあ友達?」
聞き返されて、阿部は言葉につまった。
電話の相手とは決して、友達なんて単語が似合う間柄じゃない。一番分かりやすいのは、シニアの時の先輩だ、という説明だが、なぜだかそう言いたくはなかった。
「知り合いだよ、知り合い」
やや投げやりな口調で阿部がそう言うと、花井は一応は納得した顔になった。そうか、と頷いて、もう氷が溶けて薄くなったアイスコーヒーをすする。
「つーかさ、もしホントに彼女だったら、あんな言い方しねエだろ」
何気なく口にした阿部の言葉に、花井はびっくりしたように目を開いて固まった。その様子を見て、阿部もびっくりしてしまう。何か変なことを言っただろうか。
「や、ワリイ。阿部が彼女にどういう態度取るとか、想像つかなくて」
ためらいがちに花井は言った。
「ンなの、俺だって想像つかねー」
「だよなぁ」
花井は笑った。恋も、そういうお付き合いも、阿部にはまだ遠すぎる話だった。今は野球に夢中で、他を考える余裕がない、というのもある。
「じゃあ、なんで彼女か、なんて言ったんだよ」
阿部の問いに、花井の表情が笑顔からきまずげなものへと変わる。あー、とかうー、とかしばらく唸って、ようやく口にしたのは、阿部にとっては驚きの事実だった。
「気づいてねーと思うけど、俺らの間では、お前に彼女いる説、かなり根強いんだわ」
は、と息を吐いて阿部は目を丸くした。お互いが向き合ったテーブルの間に、何とも言えない沈黙が落ちる。
「……なんで?」
驚いたままそう言ったので、阿部の声は奇妙に幼くなった。
「まあ、騒いでんのは水谷とか田島なんだけど、阿部って部活のあと、時々すげえ急いで帰るだろ。あと、今日みたいな半分休みの時とかも、いっつも予定入ってるし」
急いで帰るのは終わったらすぐ来いと命令されているからだ。別にそんな命令を聞く必要などこれっぱかりもないのだけれど、遅くなるとアホみたいな勢いで電話をかけまくってくるので鬱陶しくて仕方がない。相手は自分のペースでしか物事を運ぼうとしない。
部活休みの日は、なぜか月始まりに報告することになっていた。というか、それもあの男が勝手に決めた。
従う理由はないし、正直に話すこともないのに、どうして言うとおりにしているのか、阿部には分からない。最初に根負けして教えた時に、じゃあ、この日とこの日は会えるな、なんて言って全開の笑顔を見せられてから、おかしくなったのかもしれない。
「大抵そういう日って、お前いつもそんなに見ないのに、携帯よくチェックしてることが多いし。だから、あれは絶対彼女か片思いの相手がいるんだ! って阿部恋人伝説が」
「ふざけてんなよ」
阿部はなんだかぐったりとしてきた。そんな噂が出るほどに、あの男に時間を費やしてきたのだ、と改めて思い知る。最悪だ、と思った。
「まあ、だからさ、今日は意外だったわけ」
阿部の方から、どっか飯食いに行こうなんてさ、と続けて花井は笑った。それでまた、阿部は嫌なことを思い出してしまう。意地悪く笑う父の顔が目に浮かんだ。
お前、友達いねえんじゃねえの?
ただの煽り文句を笑い飛ばすつもりで出来なかったのは、ひどい事実に気がついてしまったからだ。部活以外で会う知人が、ただ一人になってしまっていること。そしてその人物は、決して友人と言える相手などではないこと。
これは、まずい、と阿部は思った。何だかよく分からないが、すごくまずい気がする。どうにかしなくては、と思って、ともかくそいつ以外の人間とどこかに行こうと決意したのが数日前の夜だ。
「けど、そっか。彼女じゃねえんだ」
あいつらガッカリするだろうなあ、などと花井は言う。他人事だと思って、面白がってるな。阿部は花井を軽く睨んだ。
「そういうお前は、どうなんだよ。彼女いねーの」
「俺? そうだなあ、いたらいたでうれしいけど、今の最優先は野球だし」
「おー、だな」
「部活しながら彼女も大事にするって難しいよなあ。前も、それでうまくいかなかったし」
花井の言葉は阿部には予想外だった。え、と驚きの声が唇から転がり落ちる。
「彼女いたことあんだ」
「中学の話だぜ? そんなに長く続かなかったし」
「好きで付き合ってたんだよな?」
「そりゃ、そうだろ」
阿部は思わず感嘆の息を漏らす。
言われてみれば、花井はモテそうな男だ。背は高いし、勉強できるし、運動できるし、中学の頃は4番で主将。彼女の一人や二人いてもおかしくはない。
けれども、阿部は無意識のうちに、野球部の人間は皆、自分と同じように恋愛とは無縁なのだと思っていた。
「なんか、すげえな……」
阿部は恋愛感情らしいものを抱いたことすらない。そういう阿部からしてみれば、過去に彼女がいたことがあるという花井は、自分の知らない世界を知っている人間に思えて、素直に感心してしまうのだった。