理由はしらない
尊敬のようなものが入り混じった視線を阿部から注がれて、花井は照れくささに頭をそろりと撫でる。
「や、すごくねーし。結局別れたんだから」
「俺からしたら、野球してる上にレンアイまでしてるって十分すげーよ。あれだな、未知の世界」
「阿部だって、そのうち経験するだろ」
どうかな、と阿部は首をひねる。異性に全く興味がないわけではないが、かわいい、とか、綺麗だ、と思っても大抵は一時のことで、それが恋愛に結びついたことはない。
「そうなったら、どうなるかな。意外と、阿部は恋愛にのめり込んだりしてな」
「あー?」
「お前の三橋に対しての入れ込みぶりとか見てっと、はまったらすげえってのは分かる」
花井は少し呆れの混じった、けれども決して馬鹿にしているわけではない口調でそう言った。
阿部は自分が恋愛をしている姿を思い浮かべようとして、しかしどうしても想像がつかなかった。花井の言うように、自分は夢中になるのだろうか。分からなかった。
「俺は、野球がしてえよ」
何かよく分からない恋だとか愛だとかよりも、ずっとはっきりしている感情がそれだった。今の自分には、それしか考えられない、と阿部は思う。
花井はああ、と頷いて、分かってるよと笑った。
それからしばらく話をして、そろそろ店員の視線が痛くなって来たところで二人は席を立った。店の前で、じゃあと別れる直前に、花井は余計なお世話かもしれないけれどと切り出す。
「さっきの相手にさ、電話した方がいいぜ」
阿部は花井の真意を確かめるように、その表情を見た。からかっている風ではない。
「彼女じゃなくてもさ、そうやってわざわざ時間作って会ってるんだから、大事な相手なんだろ」
本当に余計なお世話だな、と阿部は言うつもりだった。けれども、実際は言葉を返せず、どうやらひどく情けない顔をしていたようだった。なぜだか花井までつられたように困った表情になり、言った。
「泣くなよ」
「泣かねーよ」
なんでここで泣くんだよ。阿部が睨むと花井はほっとしたようだった。今度こそ、別れを告げて去っていく。阿部はその背中を見送ったあと、何かを振り切るように自転車に飛び乗った。
街灯がまばらにしかない暗い夜道を、自転車の細いランプだけを頼りに風を切って走る。通り過ぎる景色が流れていくように、頭の中でいくつもの思考が浮かんでは消えていった。
その消えていく中に、ひとつだけくり返し現れる顔がある。
昔、こんな夜道を、並んで帰った。幾度も幾度も。その遠くなってしまっていた過去に、今また新しい記憶が重なっている。幾度も幾度も、一緒に歩いた。
大事な相手なんだろう、と花井は言った。まさか、と阿部は思う。シニアのチームを卒団して以来会っても居なかった相手だし、会いたいとも思ってなかった。数ヶ月前に再会してしまった時だって、自分の運の悪さを呪いこそすれ、懐かしんだり喜んだりなんてしなかった。
だからこそ今の状況が、自分でもよく分からない。気がつけば再会してから二人で会った回数は、とっくに両手の指で収まらなくなってしまっていた。
「あー……」
小さな低い唸りが漏れる。国道沿いの道に差し掛かれば、途端に車の音で耳が賑やかになった。
煮え切らない、こんなのは、自分らしくない。置き所のない気持ちを吐き出すように、阿部は唸りを上げて自転車を強く漕いだ。
玄関先でただいまと声を上げると、奥からぱたぱたと足音がして母が姿を現した。
「おかえり。タカ、ねえ携帯どうしたの」
「は?」
「何回かけてもつながらないんだもの。帰りにトイレットペーパー買ってきてもらおうと思ったのに」
そういえば、と阿部は電源を落としたままの携帯をかばんから取り出した。
「ごめんなさい」
「もう、シュンちゃんに行ってもらったからいいわ。それより、お風呂空いてるから入っちゃいなさい」
うん、と頷いて阿部は荷物を置きに階段を登る。
手に持ったままの携帯電話の電源を入れたのは、部屋に入って扉を閉めてからだった。メインディスプレイに明かりが灯ったのを確認して、ベッドに放り投げる。
それから、バッグを床に下ろして、寝巻きと下着をクローゼットから出していると、マナーモードにしたままだった電話が、着信を告げる低い振動音を立てるのが耳に入った。
新着メールが一件。送信者は、榛名元希。阿部はディスプレイに表示された本文を見てため息をついた。
『帰ったらすぐ電話』
その一行だけだった。今日のことを怒っているのだろうか。
けれども、阿部は部活休みの日を教えはしたが、その日に必ず会うなどとは約束していない。榛名に腹を立てられる筋はないのだ。
阿部は返信ボタンを押して、榛名に負けず劣らず短い本文を入力して送信した。
『早く寝てください』
送信完了の画面を見る前に携帯電話を放り出して、阿部は着替えをまとめて部屋を出ようとした。
丁度、ドアノブに手をかけたところで、また先と同じ振動音がした。
無視してしまえばいい。最初から、そうしていれば良かった。しつこく電話をかけてくるのが嫌なら、着信拒否をすることだってできる。
そんなことは知っていたけれども、それでも阿部は着信拒否も、無視もできなかったのだ。
踵を返してベッドの前に戻り、携帯電話を取り上げて受話ボタンを押した。
「はい」
「お前、出るのおっせーよ!」
声がでかい。阿部は無言で音量を最小に落とした。
「つーか、電話しろって言ってんのに、なんでメールなんだよ」
「俺、今月電話代厳しいんで。あんまりかけたくないんです」
勿論嘘だった。用件以外でかけることがないので、厳しいどころか、毎月の無料通話分を使いきることすら珍しい。
「なー、タカヤー。俺、今日先輩に奢ってもらった!」
もう話が変わっている。真面目に相手をするのが馬鹿らしくて仕方がない。
「ひとり一個ずつ、おでんの具もらったんだぜ! そんで、みんなでコンビニの前で食った」
「そうですか良かったですね。俺はあんたに奢ってもらったことなんかないですけど」
「は? 奢る必要なんかねーじゃん」
榛名は当たり前だと言わんばかりの口調でそう答えた。別に奢ってもらいたいと思ったことがあるわけではないが、こうもはっきりと言いきられるとなぜだか腹が立つ。
「お前、だって、淋しくないだろ」
榛名は言った。
「俺がタカヤと今日会えなくなったさみしーって言ってたから、先輩たちが奢ってくれたんだぜ。お前、俺と会ってる時淋しくないだろ」
だから奢らない、と続けた榛名の言葉に、阿部の頭の中はごちゃごちゃにかき乱されていた。さみしい、ってなんだ。俺と会えなくて? 何を言ってるんだこの人は。
「切っていいですか」
混乱する思考についていけなくて、阿部はそう言った。
「あ?」
「電話。っていうか切りますね」
「駄目に決まってんだろ! なんでだよ!」
「だって……」
漏らした声は思った以上に弱々しくなって、阿部は自分でもぎょっとした。電話の向こうの榛名も何かを感じたのか、うるさい口を閉ざしている。