理由はしらない
「え、あ?」
「ちゅーしてるなー」
榛名はのんびりと言った。阿部は、言葉を忘れて道路越しに他人のキスシーンを見つめる。そう珍しいことではないのかもしれないが、自分と同じ年くらいの人間がああいうことをしている、というのが、阿部には軽いカルチャーショックだった。
「なっげー」
確かに長い、と阿部は思った。いや、標準的なキスというのがどういうものか分からないから、もしかしたらあれは普通なのかもしれない。しかし榛名も長いと言ったのだから、やはり自分の感覚は間違っていなかったのだろう。
「あ、終わった」
榛名の言葉通り、体を離した男女は、手をつないでどこかへと歩いていった。それを最後まで見守っていたら、とっくに飽きて歩き始めていた榛名の背中が随分遠くなっていた。
駆け足で追いかけながら、阿部は考えた。ああいう二人なら、普通なのだ。恋人同士で、キスもするような相手となら、部活部活で忙しい毎日の時間をやりくりしてでも会うというのは分かる。
そこまで考えたところで、阿部はふと思った。榛名に、彼女はいないのだろうか。
モテるのモテないのといった話をするなら、榛名こそモテそうな男だ。あまり他人の容姿に頓着しない阿部から見ても、榛名の容貌が人を惹きつけるのは分かる。
それになんと言っても、野球をしている時の榛名は特別だった。ひと目見ただけで十分に分かるほど、投げる榛名は特別だった。
シニアの時はどうだったろうかと思い出そうとしたが、特別そんな話を聞いた覚えはなかった。
とは言っても、単純に阿部が気がつかなかっただけ、という可能性も捨てきれない。何しろ、あの頃の阿部は榛名の球を受けること意外には、ほとんど何も気が回らなかったからだ。
先を歩く榛名にようやく追いついた阿部は、気がつけば問いかけていた。
「元希さん、彼女とか、いないんですか」
「あー?」
榛名は気のない声を上げたあと、意地悪気な笑みを浮かべて振り返った。
「ナニ、さっきので興奮しちゃった? 彼女ほしーなーって?」
「なっ」
「お前、すっげー見てたもんなあ。そっかそっか、タカヤもお年頃かあ」
にやにやと笑いながらそう言う榛名に、阿部はいきり立って反論した。
「そうじゃなくて! こないだ、友達とそういう話したから、思い出しただけです!」
「へー」
榛名は少し真顔になって言った。
「どんな?」
「え?」
「その話って」
「あ? ああ、なんかそいつ中学ん時彼女いたらしいんすけど、部活忙しくてなかなか会えなくて別れたとか、そういう話です」
ふうん、と榛名は軽く鼻を鳴らした。それから、さっさと歩き始める。聞いておいて、もう興味をなくしたと言わんばかりのその態度に、阿部は少しむっとなった。
「だから、あんたに彼女がいたらワリーと思ったんだよ」
もう、この話はこれっきりにしよう、と阿部は思った。下手につついて逆にからかわれるのはごめんだ。
そのまま、しばらく二人は無言で歩き続けた。いつの間にか川沿いの土手まで来ており、川から吹き上げる風が前髪をさわさわと揺らしている。
「タカヤ!」
急に振り返った榛名が名前を呼んだ。阿部は立ち止まり、榛名の顔を見上げる。榛名が口を開く様が、奇妙にゆっくり見えた。
「お前、なんで来んの?」
は、と阿部は息を漏らした。
「なんで俺と会ってるわけ?」
榛名の声に茶化す色はなかった。だからこそ阿部は、言葉に詰まる。
「そ、んなの……!」
あんたが呼ぶからでしょうが、と言いかけて、阿部は言えなかった。
断ることだって出来るのに、いつも呼ばれるままに来ているのは自分だと分かっていたからだ。
阿部はうつむいてぐっと奥歯を噛み締める。分からないのだ。そんなの、一番知りたいのは阿部の方だった。
「俺は、知ってるぜ」
榛名の言葉に、阿部はがばりと顔を上げた。
目が合った榛名は、笑っていた。とても楽しそうに、目を細めている。
「知りたい?」
頷けば簡単だった。それを知っているのに、素直にそうするのは悔しくて、できない。
阿部が榛名を睨んでいると、それで十分答えになったとでも言いたげに、榛名が歩み寄ってくる。
口を開いた榛名が、次に紡ぐ言葉を待っていた。それを待って見つめていた。けれども、望むように言葉は降って来ず、代わりに榛名の暖かな息を肌に感じただけだった。それから短く水音。
「……は?」
阿部の唇からその声が漏れた時、なぜだか榛名の顔が度が過ぎるほど近くにあった。
知り合って何年も経つが、これほどの至近距離で見るのは初めてだ、と頭の隅のほんの少しだけ冷静な部分が考える。阿部はまばたきした。
「なんか、今、口……当たったんすけど」
「ん、キス」
なんでもないことのように榛名は言った。
キスって、なんだっけ?
阿部は離れていく榛名の顔を見つめながら考えた。それから、先ほど見たばかりの光景がフラッシュバックする。道の向こうで唇を重ねていた恋人同士の姿。あれがキスだ。
「キ……!?」
ようやく事態を把握して、頓狂な声を上げる阿部を、榛名がぐいと抱き寄せる。強い力だった。
「ちょ、なに、してんだよ……!」
予想外の榛名の行動に混乱した阿部は、その腕の中でもがいた。
なんだ、これは。どうなっているんだ。
触れた部分から伝わるのは疑いようもなく他人の体温だった。熱い。他人の体とは、こんなにも熱いものなのだろうか。二人を隔てる衣服の壁など、まるでないかのように、阿部が困るほどの熱が染み込んでくる。
精一杯に目の前の体を押しのけようとする阿部を、けれども榛名は許さなかった。
阿部は、もがいてもがいて、そうするうちに、鼻先をくすぐる匂いに気がついた。呼吸をする度に吸い込むそれが、榛名の匂いなのだと分かって、阿部の体からするすると力が抜けていく。
腕の中に閉じ込めた体が、すっかり大人しくなったところで、榛名は身をかがめて阿部と額をあわせた。間近にその瞳を覗き込んで、問いかける。
「な、分かっただろ」
そう言って、満面の笑みを浮かべる榛名を見た時、阿部はついに理解した。
ああ、そうなのか。自分は、ただうれしかったのだ。
榛名のこの笑顔が、うれしくて、うれしくて、ただそれだけだったのだ。
観念したようにまぶたを閉じて息を漏らす阿部に、榛名はうれしげに鼻先をこすりつけてくる。さらさらと触る前髪がくすぐったかった。
「なあ、タカヤ」
榛名の声を、阿部は目を閉じたまま聞いた。見えていないのに、榛名の表情が目に浮かぶような、うれしさでいっぱいの声音だった。
「今日、手えつないで帰ろうな」
子どものようなこと言う榛名に、阿部は思わず笑ってしまう。
ゆっくりとまぶたを開いて視線を合わせると、榛名のきらきらした目とぶつかった。
「いやですよ、元希さんの手、大きいんだから」
俺の心臓だって、簡単に掴んじゃうでしょ、と続けて、阿部はまた笑った。