理由はしらない
どうして、電話越しだと沈黙は音になるのだろう、と阿部は思った。機械を通してつながった空間は、沈黙という音を立てて二人の間に横たわっている。
先に口を開いたのは榛名の方だった。
「あー……。お前さ、予定あるならちゃんと言えよ」
言ってあんたが聞くのかよ、と思ったが、阿部は口には出さなかった。
「お前何にも言わないから、俺は今日は会うんだーって思ってるじゃん。それなのに、急にダメって言われたらがっくりすんだろ」
そんなの、あんたが勝手に思い込んでるだけだろ、そう言いたいのに、声が出ない。
がっかりした、ということは楽しみにしていたことの裏返しだ。
榛名は、俺に会いたかったのか。そう思うと、阿部の口は独りでに動いていた。
「……すみません」
「おー、分かりゃーいいんだよ」
満足気な声が返ってきて、阿部は悔しくなる。どうしていつも、自分は榛名を喜ばせるようなことを言ってしまうのだろう。
そう思いながらも、ひどく嬉しそうに、なあ、次はいつにする、と尋ねられたら、どうしたって答えずにはいられないのだった。
その日の阿部は夢を見た。
夢、というよりも、それは記憶の再現で、高校で再会してから初めて榛名と二人で会うことになった日のことを、まるで映画のフィルムを再生するようにして見ていた。
待ち合わせは駅前のコンビニ。会うなり、榛名はアイスを食べようと言い出した。
何か用があって呼び出されたのだと思っていた阿部は、拍子抜けしてしまう。
榛名はそんな阿部の様子に構うでもなく、痛いような白い照明で満たされた店内へと入っていった。阿部は外で待とうかどうしようか迷って、結局その背中を追いかける。
榛名は高い背をかがめてクーラーボックスを覗き込んでいる。大きな子どもは、阿部が後ろに立ったことを気配で感じ取ると、なあなあ、どれにする、と問いかけてきた。
「食べるの、元希さんでしょ。好きなのにしたらいいじゃないですか」
「はあ? お前も一緒に食うに決まってんだろ。真剣に選べよ」
「いや……、俺はいいです」
なぜ榛名と並んでアイスを食べなければならないのか。本音を言えば、用がないなら今すぐにでも帰りたいのだ。
阿部の言葉に、榛名は顔だけで振り返った。目をきゅっと丸くした表情は、どことなく幼さを感じさせた。
「お前、アイス嫌いだったっけ?」
「そうじゃないですけど」
「じゃ、これにしよーぜ!」
榛名が手に取ったのは、二つで1パックになっている氷菓子だった。すたすたとレジ前まで歩いていき、おい、と阿部を呼び立てる。
「なんですか」
「ん」
榛名が手のひらを上に向けて差し出していた。ああ、左手だ、と反射的に阿部は思う。投手の手のひらだった。
「割り勘すっから、半分出せ」
「はあ?」
「はーやーくー」
「やですよ。自分で食うもんくらい、自分で払ってください」
「お前も食べるって言ってんだろ」
「いりません」
「ほら、店員さん困ってるだろ! お前、社会にメーワクかけんじゃねーよ」
言われてレジ越しに店員を見れば、目が合った相手は困ったようにあいまいに笑った。
阿部は短く舌打ちをして財布を取り出す。榛名に硬貨を渡す時、少しだけ指先が触れた。
ありがとうざいました、という声を背にして店を出る。榛名は、駐車場に置いてあるコンクリートの車止めの上に腰を下ろして阿部を呼んだ。二つ並んだうちのもう一つに座れと言うのだろう。
榛名と並んで座るなんて、と思ったが、まがりがりにも先輩を見下ろして突っ立っている訳にもいかず、自分だけアスファルトの地べたに座り込むのもあほらしいので、しぶしぶ阿部は従った。
うきうきとした様子で榛名はビニールのパックをあけると、チューブ型の氷菓を取り出して、くっついている二つを切り離した。それから、その内のひとつを、ほら、と言って阿部に投げてよこす。
「……白い方が良かった」
「あ?」
「これ、チョココーヒーじゃなくて、ヨーグルト味の方がよかったです」
阿部がそう漏らすと、榛名はちょっと呆れた顔になって、ワッガママ! と叫んだ。
一番言われたくない相手に一番言われたくないことを言われて、阿部の眉間にぎゅっとしわが寄る。
榛名はすぐにアイスクリームに夢中になって、阿部の方には見向きもしなくなった。ただ榛名を眺めていても不毛なので、阿部もチューブを開けて冷たい氷を口に含む。
やっぱり、甘い。コーヒーとは名ばかりで、ほとんどがチョコの甘さだった。大体、コーヒーに砂糖入れるとか、意味わかんねえ、と阿部は思う。
甘さを飲み下しながらちびちびとすすっていると、ふと、視線がそそがれているのを感じて阿部は顔を動かした。あっという間に食べ終えたらしい榛名が、じっと阿部を見ている。
榛名の目は猫の目みたいだ、と阿部は思った。暗い中で光る目だ。
あまりに見つめられて阿部は居心地悪く、コンクリートブロックの上で座りなおした。
一体なんだと言うのだろう。もしかして、これが欲しいんだろうか、と阿部は手にしたアイスクリームにちらりと目をやった。それなら、最初から一人で食べればいいのに。口をつけた後のものを渡すのは、気が進まない。
阿部はそんな風に考えていたが、榛名が思っていたのは別のことだったようだ。すっと、左手が伸びてきて、頬をつままれる。
「お前、ほっぺた、どこに落としてきた?」
「……はあ?」
咥えていたチューブから口を離して、阿部は思い切り怪訝な声をあげた。
「シニアん時、もっとぷくぷくしてただろ」
そう言って、むにむにと阿部の薄い頬をつまむ。榛名の指先は、先ほどまで手にしていた氷のせいでひんやりとしていた。親指も人差し指も、練習の痕を残して固かった。
「知りません。つうか、離して下さい」
阿部が体を揺すって振り払うと、榛名は意外にもあっさりと手を離した。それから、笑って言った。
「次はヨーグルトにしてやっから」
怒んなよ、と続けた榛名が浮かべている笑みは、まるでその大きな手で頭をなでられた時のような感覚を、阿部に思い起こさせた。
二週間ほど経って、榛名と会う日がやってきた。
その日は、駅で落ち合ったあとは、特にあてもなく、なんとなく二人で歩き始めた。榛名は気分屋で、うるさくべらべらとしゃべり立てる日もあれば、ほとんど口を開かずにいる日もある。今日はその後者だった。
日はもうとっくに落ちて、辺りは暗い。斜め前を歩く榛名が肩にかけたエナメルのバッグが、時折わずかに光を弾いて揺れていた。
榛名が何も話さないので、阿部は自分の考えに没頭していった。つまり、この自分と榛名との関係の謎について。
花井と話したあの日から、阿部はしばしば考えるようになったが、なぜ彼女でもない相手にわざわざ時間を割いて会っているのか、やはり分からないままだった。
と、不意に榛名が立ちどまり、阿部は思わずその背中にぶつかりそうになって、際どいところで踏みとどまる。
「どうしたんですか」
急に止まったら、びっくりするでしょう、と続ける阿部に、うん、と頷いて榛名は道の向かい側を指差す。
促されるままに視線をそちらへ向ければ、高校生らしき男女が体を寄り添わせていた。
「ちゅー」