夏残
野球をやるやつなんてのは、大抵馬鹿でマゾだ。九月も終わろうかという季節なのに、一向に秋の気配を感じさせない気候で、じっと立っているだけでも汗がにじんでくる。
フェンス越しには自分よりも一回りは小さい少年たちが、照りつける日差しの中で白球を追いかけていた。
馬鹿で、マゾなんだ。呂佳はもう一度繰り返す。誰よりも自分に向けた言葉だということは、分かっていた。
きっちりと締めていたネクタイの結び目を少しだけゆるめて、襟元をぱたぱたと動かす。気休め程度でしかないが、ほんの少しでも暑さを和らげたかった。呂佳はグラウンド全体を見渡したあと、ある一点で視点を固定する。
三塁側の脇に設けられた投球練習用のスペースでは、今二組のバッテリーが投球練習をしている。用があるのはそのうち一組だけ、もっと正確に言えば、そのうちのひとりだけ、だ。
そいつはぐんと大きく両手を振りかぶると、右足を高く上げ、一瞬ののちに大きく踏み込み、鞭のように腕をしならせて球を放った。離れた位置にいる呂佳の耳にも届く、速球が風を切り裂く音。
なるほどな、確かにあちこちから誘いがかかるだけのことはある。荒いが速い。それに左だ。呂佳は鼻を鳴らした。
「仲沢くん、だったかな」
のんびりとした声が呂佳を呼んだ。眼鏡をかけた温和そうな男は、暑いね、と言いながら脱いだ帽子のつばの部分で風を扇いでいる。その男がこの戸田北リトルシニアの監督であることは、先ほど見学を申し入れた時に聞いていた。
「やっぱり彼が気になるかい」
彼、というのが誰を指すのかいちいち言わなくともよく分かる。呂佳は微笑んで見せた。
「弟は捕手なんです。もし弟がこのチームに入ったら、あのすごいピッチャーと組むことになるのかな」
「ああ、いや。元希は三年だから、もう引退だよ。残念ながら君の弟が入団してもバッテリーを組む機会はないだろうね」
それは残念です、と応えながら呂佳は「元希」へと視線を戻した。
しかし、ひっでえノーコンだな。声には出さずに心の中で独りごちる。捕手は頑張って捕球しているようだが、あれだけボールがばらけるとリードの組み立ても覚束ないのではないだろうか。コントロールは高校に上がってからも課題になるだろう。
投球練習場をじっと見つめたまま口を閉ざしてしまった呂佳の沈黙をどう捉えたのか、監督は取り成すように言った。
「だけど、元希の他にもなかなかいいピッチャーがいる。君の弟さんが入りたいというのなら、うちは歓迎するよ。途中入団の子もみんな仲良くやっている。ああ、そう、元希もね、二年生の秋にうちに来たんだよ」
「へえ……そうなんですか」
そんなことはとうに知っていたが、呂佳は今初めて聞きました、という顔を作ってみせた。榛名元希は中二の夏に膝を故障、リハビリの後、戸田北シニアに入団。関東ベスト16の実績を残す原動力になった。友人の滝井から聞かされた情報がつらつらと頭の中に流れる。
「よかったら、弟さんも今度連れておいで。日曜日は試合のことが多いから、平日の自由練習か土曜の全体練習の時にでも」
「ありがとうございます。伝えてみます」
あの馬鹿は中学の部活に夢中だから来るわけねーけど。心の中に浮かんだ弟のバカ面に笑いながら呂佳は丁寧に言葉を返した。
そもそもが、弟がシニアのチームに入りたがってるので、その代理に見学に来た、なんて理由がはなから嘘っぱちだ。そんな嘘をついてまでこのくそ暑い中電車を乗り継いでこんなところに来ているのは、たった一つの目的のためだった。
「その……、元希くん、ですか? 是非話をしてみたいのですが」
よろしいですか、と精一杯の愛想笑いを浮かべる。強面のこの顔で笑ったところでどの程度の効果があるか疑問だったが、ただでさえ恐い地顔なんだからせめて笑えと滝井にはきつく言われている。その甲斐があったのかどうか、果たして監督は頷いた。
呂佳の夏は初戦で早々に終わった。高校三年間の部活での全てが、あの瞬間に意味のない、くだらないものだったと烙印を押されたように呂佳には感じられた。
中学時代の同級生、滝井朋也に協力を頼まれたのは、滝井が呂佳たちの行けなかった準々決勝で戦い、負けたすぐあとのことだった。
試合を終えて球場の外に姿を現した滝井はユニフォーム姿のままで、その体からはまだ試合の匂いがした。呂佳は思わず顔をしかめる。土と汗の混じった匂いは不快だ。懐かしいと思うにはまだ近すぎるし、もう一度自分がその匂いをまとうことはあるまいと思うと、ひどく遠く感じられた。
少し後ろの路肩では身を丸めて涙をこぼす滝井のチームメイトたちの姿がある。
――呂佳。オレ、来年ウチの監督やんだ。手伝ってくれ!
そう言った滝井の目は気力に富んでいて、高揚からか頬も紅潮していた。それを呂佳は、まるでおかしな生き物を見るかのような胡乱な目つきで見やる。
負けたくせに、終わったくせに、何でこんなに楽しそうなんだ?
呂佳には不思議でたまらなかった。高校最後の大会を終えて、呂佳の心も体もおかしくなってしまっているというのに、滝井は反対に、力があふれてたまらない、という表情をしている。
胸をひやりと氷つかせる思い出の怖さも、進む先の道がぷつりと途絶えてしまったような感覚も、指の先からするすると何かが流れ出してしまうようなけだるさも、こいつにはないのだろうか。
呂佳は滝井のユニフォームに大きく描かれた校名をじっと見つめる。それは、呂佳が高校三年間を過ごしたチームのものではない。
「わりーけど、ムリだ。もう野球やりたくねエし」
口から出た声は思ったよりも低く、かすれた。
これを他人に言うのは二度目だ。最初に野球を辞めると告げた相手は弟で、それを聞いた馬鹿は自分が辞めるわけでもないのになぜだか泣きそうな顔をしていた。本気で言っているのか、と聞くから当たり前だろうと答えた。
「だから、これお前にやるよ。もう俺、使わねーし」
野球道具をまとめて詰め込んだ箱を、利央に差し出すが、受け取ろうとしない。代わりに、ぐずぐずと泣き始めて、にーちゃんやめないで、などというものだから、呂佳は思わず利央の頭をなぐった。
「中学にもなって泣いてんじゃねーよ。うぜえ」
利央は頭を押さえて、なにするんだようと睨んでくる。それくらいの顔の方が、まだマシだった。
「おめーはなんで野球やってんだよ」
「……すきだから」
「なら、俺が野球やめるって理由もわかるだろ。オラ、やるっつってんだから受け取れよ」
ほとんど無理やり利央に箱を押し付けて、呂佳は部屋を出ようとした。扉に手をかけたところで、にいちゃんのうそつき、と呟く弟の声が聞こえた気がしたが、無視をした。
球場からわっと湧き上がった歓声が聞えて呂佳は我に返った。ああ、やつらの夏はまだ続いているんだ。いつもなら呂佳の体を興奮させたはずのその音は、今はただ憂鬱でおそろしいだけのものに感じられた。
滝井は呂佳の言葉に一瞬驚いたような顔をしていたが、すぐにきゅっと表情をひきしめて言った。
「お前は桐青で、野球やったんじゃねーか!」
呂佳は心臓を掴まれた思いだった。
「美丞でがんばってたオレに、なんかないのかよ!」