それが愛の言葉
家に帰りつくと、既に明かりが灯っていた。もうすっかり慣れた光景になってしまって、呂佳は今更驚きはしない。
1DKの室内に、大きな体が転がっている。大学3年になってから一人暮らしを始めた呂佳の部屋に、何かにつけてやってくる男は今、フローリングの上で平和な寝息を立てていた。
呂佳は、荷物をベッドに放ると、床に投げ出された大きな足を蹴っ飛ばした。
「おい、寝るんなら自分の家で寝ろ」
蹴って空いたスペースにどかりと腰を下ろす。一人で住むにはさほど窮屈さを感じることもない部屋だが、男が二人いると途端に狭くるしく感じられた。
もうひとつおまけに蹴ってやると、ようやく男は目を覚ましたらしかった。むくりと体を起こしてこちらを見る。
「あー……、呂佳さん、お帰りっす」
がしがしと頭を掻きながら、寝ぼけ眼であくびをひとつ噛む。それから、まだ寝起きのゆっくりとした仕草で腕を伸ばして呂佳に抱きついてきた。
つい先ほどまで眠りの中にいた体は熱い。薄いシャツ越しでは、伝わりすぎるほどに相手の体温が感じられてしまう。
呂佳は、ふと顔を上げて鏡に映った自分たちの姿を見て、心底げんなりした。
筋骨隆々の男二人が抱き合っている光景など、むさくるしいというほかない。
「あちーんだよ、離れろ、和己」
右手で目の前の体を押しやると、特に残念がるでもなく離れる。それから、和己はふわあああ、と特大のあくびをした。
「呂佳さん遅かったっすね」
「あ? 飲みだよ、飲み。つーか、待ってろとか言ってねえし」
「俺も別に待ってたわけじゃないっすよ」
なんだそれは、と呂佳は顔をしかめた。
「なら来んなよ」
「呂佳さんちって、なんか居心地いーんすよねー」
こいつに合鍵を渡したのは、全くの失敗だった、と呂佳は思う。この調子でやたらに居座られて、週の半分以上は一緒に過ごしている気がする。
眉根を寄せて渋い顔をしている呂佳に、和己は凝りもせず触れてきた。
「なんだよ」
待ってたんじゃないんだろ、俺じゃなくて、この部屋が目的なんだろ。いっそ、そうであってくれた方が楽だった。
「待ってたわけじゃないスけど、顔見たら、いちゃいちゃしたくなりました」
目の前に影が差す。和己の顔が近づいてきていた。
「お前、サイアク」
いちゃいちゃとかいう単語が似合うツラかよ、俺もお前も。
恋人のような行為が似合うお互いではないので、呂佳は最後まで目は閉じなかった。
そもそもの始まりは、勿論恋ではない。二人が近づくことになったのは、一年ほど前に、呂佳がコーチを務める美丞大狭山高校と西浦高校の試合を和己が見に来たのがきっかけだった。
これに勝てばベスト8、という試合で見事に美丞大狭山は勝利をおさめ、呂佳は久方ぶりに合宿所ではなく実家に帰宅した。
リビングのソファにだらしなく身を横たえていた利央は、帰って来た兄の姿を見とがめると、がばりと体を起こした。
「あ、にいちゃん、おかえり」
つい先ほどまで寝転がっていたせいで、ただでさえくしゃくしゃの髪にみっともなく寝癖がついていた。こういう時の弟は、いつも以上に馬鹿そうに見える、と呂佳は思う。その馬鹿さ丸出しの表情で、利央は何か問いた気に呂佳を見上げてくる。弟が、何を聞きたいかは分かっていた。
「兄ちゃんが敵とってやったぞ」
にかりと笑ってそう言ってやると、利央はぐり、と大きく目を見開いた。
「西浦に勝ったの」
「おー」
「何対何?」
「11対6」
スコアを告げると利央は途端に複雑な顔をした。
桐青が最後まで競り合った相手が、五点という差を付けられて敗れたのが納得がいかないのだろう。
ああ、気分がいい、と呂佳は思う。弟の悔しそうな表情を眺めていると、試合に勝ったというのにくさくさしていた気持ちが晴れていくように思えた。それというのも、あの後輩が変なことを言うからだ、と一人の男の顔を思い浮かべたところで、呂佳はああ、と息を吐いた。
「会ったぞ、和己に」
「え!」
先ほどと同じくらいか、それ以上の勢いで利央は驚いた。
「和さんと? どこで?」
「会ったつっただろ。球場に決まってる」
「試合見に行ってたんだ……」
利央は、かすれるような声音で西浦の、と続ける。それを聞いて呂佳は思わず喉の奥で笑いを漏らした。
「あいつもすんげーマゾだよなあ? 自分が初戦負けした相手の試合見に来てんだから」
な、と同意を求めると、利央は傷ついた顔をした。
「初戦負け、初戦負けってすぐ言うの、やめてよ」
「は? 初戦負けだから初戦負けって言って何がわりーんだよ。負けは負けだろ。ずっと背負ってくんだよ」
辛気くさいツラをしていた、と呂佳は球場で会った和己を思い返す。腹の中でぐつぐつと感情を煮立たせているのに、表面だけは落ち着いて変にこちらに絡んでくるからうっとうしかった。
「……経験談かよ」
「あ?」
睨み付けるようにして見下ろすと、利央はふいと顔を背けた。
利央は和己になついている。それはもう、中学の時分から和さん和さんとうるさかったものだ。おかげで、呂佳は和己と共に部活に励んだのは中学と高校の一年ずつにも関わらず、妙に和己について詳しくなってしまっていた。
「和さん、部活来てないんだ」
視線はリビングのテーブルに投げかけたままで、利央は言った。呂佳は、ふうん、と鼻を鳴らす。
「引退したんだし、別にいーだろ」
「だけど! 慎吾さんたちは、顔出してくれてるし、合宿にも来ないって言うし」
「そんなん、和己の勝手じゃねーか。あいつ受験するって言ってたし、馬鹿のお前にはわかんねー苦労とかあるんじゃね」
そう、物好きなあの後輩は、わざわざ予備校にまで通っているようだった。何がそうさせているのかは、呂佳でなくても分かるだろう。だからこんな頭の弱い弟でも、眉を下げた情けない顔をして、言うのだ。
「和さん、野球やめちゃうのかな」
知るかボケ、と答えて呂佳はリビングを後にした。
桐青高校が硬式野球部新設の高校に初戦で敗退した、と知った時、自分が最初にどう感じたのか、呂佳は覚えていない。信じられないと思ったような気もするし、笑い出したくなった気もするし、奇妙な安堵を覚えたような気もする。
和己を呼び出したのは、自分と同じような思いを味わった後輩が、いったいどんなツラをしているか気になったからだ。勿論、一番の理由は桐青を倒した西浦高校の情報収集だったが、いつも歳の割に落ち着き払っている後輩の落ち込む顔を見て満足したい、という暗い期待があったのも、また確かだった。
ファミリーレストランで会った和己は、思っていたよりは表情に翳りはなかった。情報料として奢ってやった飯を遠慮なくがつがつと食らうふてぶてしさもあったし、ある程度のところまでしゃべると、最後は出し惜しみするぐらいのしたたかさもあった。
なんだ、こいつは案外平気なのか、と思いかけたところで、帰り際に和己が下げている紙袋の中身に呂佳は気がついた。桐青高校野球部は名門だ。敗れたとはいえ、その主将をやっていたのであれば、推薦でどこへなりと入学できるだろう。だというのに、敢えて受験勉強などをすると和己は言う。