いつかの未来
タカヤはもう新しいミットに夢中だった。誕生日の朝、両親から手渡された包みを開いて、初めての自分用のミットを手にしてからというもの、片時も離したがらない。
ごく幼い頃から父親とキャッチボールを楽しんでいたが、タカヤが本格的に野球を始めたのは小学校に上がってからだった。リトルリーグのチームに参加したのは春からで、その間に一通りのポジションを経験した。その子の適性や、先輩メンバーたちとの兼ね合いなども考えて、一年生たちの一応のポジションが決まったのが少し前のこと。タカヤは、9つある守備位置の中から、キャッチャーというポジションについた。
ミットを手にはめて、その大きな革の手の中でボールを転がすタカヤの横で、弟のシュンがぺたりと座りこんだまま、シュンちゃんは、とたずねている。
「シュンちゃんは? ぷれぜんと」
タカヤより少し年下の弟は、今、なんでも兄とおそろいにしたがっている。ばたばたと両脚を動かして、プレゼント、プレゼント、と繰り返す。
「シュンちゃんはまた今度、ね。今日はおにいちゃんのお誕生日だから、プレゼントはおにいちゃんだけ」
母の美佐枝が言うと、シュンはますます大きな声をあげた。
「やだあ! シュンちゃんも、ぷれぜんと!」
「シュンちゃんの誕生日はまた来年。その時いーっぱいあげるから」
やだ、やだとだだをこねる弟の声も、それをなだめる母の声も、タカヤの耳には入っていないようだった。新しいミットを自分の手に馴染ませるように、何度もボールを握っては離し、握っては離しを、繰り返している。
「もうっ、わがまま言う子は、お出かけ連れてってあげないよ」
「おでかけ?」
「おにいちゃんお誕生日だから、ケーキ買いに行くの。シュンちゃんも行きたい?」
「いく!」
「じゃあ、おでかけの用意しなきゃね。シュンちゃんひとりで出来るかな?」
「できる!」
元気よく応えると、隣の部屋へと駆け出していく。お出かけ用の帽子を取ってくるのだ。その姿を見送ってから、美佐枝は、本日の主役である長男へと声をかけた。
「タカ、お出かけするよ」
母の声に、タカヤはミットを手にしたまま顔だけ振り仰いだ。
「おとうさんは?」
タカヤはどちらかというと、お父さんっ子だった。というよりも、タカヤが好きになる人間の基準は、野球をどのくらい知っているか、で決まる。一緒に野球をしたり、野球の話が出来る人をより好むようだった。
そして今はなにより一番に、キャッチボールをしたくてたまらないのだろう。美佐枝が、お父さんはお仕事、と告げると途端にがっかりした表情になった。
「お父さんとは今度のお休みに遊ぼうね。今日はお母さんとシュンちゃんとお出かけしよう」
気を引き立たせるように美佐枝がそう言うと、タカヤはこくんと頷いた。それから、上着を取ってくる、と言って部屋を出て行く。丁度入れ替わりに、ぱたぽたと軽い足音を立ててシュンが戻ってきた。お出かけ用の帽子をかぶって、しっかりマフラーまで巻いている。
「おかあさん! できた!」
「わあ、シュンちゃんえらいねえ。準備万端ね」
美佐枝の言葉にシュンはうれしそうに飛び跳ねた。
「ケーキ! ケーキ!」
シュンが母の手を握ってぶらぶらと揺らして甘えているところに、タカヤが戻ってきた。紺のジャンパーを着て、野球帽をかぶったタカヤの両手には、まだミットが抱えられたままだった。
「タカ、それは置いていきなさい。失くしちゃったら、困るでしょう」
「なくさない」
「でも、邪魔になるじゃない」
タカヤは頷かなかった。ぎゅっとミットを抱きしめて、頑固な表情で美佐枝を見上げる。
タカヤはシュンのようにわがままを言って困らせるといことはあまりないが、その代わり、こうと決めたことは頑としてゆずらない部分があった。このまま美佐枝が許さなければ、じゃあ行かない、とでも言い出しそうだ。
美佐枝は困った子ね、と息を吐いてから、タカヤのミットが入るだけの大きさの袋を用意してやる。タカヤは差し出された袋に慎重におさめると、満足そうに笑った。
「おかあさん、ありがとう」
これがあるから、タカヤの頑固さなんて可愛いとしか思えない、と美佐枝は親馬鹿のようなことを思ったのだった。
休日のショッピングモールは混み合っていた。クリスマスが近いこともあって、プレゼントを選びに来たらしい人たちの姿も多く見える。おもちゃ売り場から離れたがないシュンをなんとかなだめて、1階のイベントホールへと向かう。
そこにはもう既に沢山の人たちが集まっていた。用意された座席も残り少なくなっていたので、美佐枝は息子たちの手を引いて急いで椅子を確保する。前に設けられたステージからは少し遠い、後ろから二列目の席ではあったが、座れただけでもよかったと美佐枝は思う。もう小学生で、元々我慢強いタカヤはともかく、幼いシュンは何十分も立ちっぱなしなのには耐えられないだろうからだ。
「ケーキは?」
小さな靴を揺らしてシュンが尋ねた。
「ケーキはあとで。帰る前に取りにいこうね」
ふうんと鼻を鳴らして、シュンはあたりをきょろきょろと見回した。
「おにいちゃんとおそろい、いっぱい!」
シュンが指差す先には、タカヤがかぶっているのと同じ地元球団の帽子をかぶった子どもたちがいる。ステージの壁面には大きくその球団のペットマークも描かれていた。
タカヤは興奮に頬を上気させて母を見上げた。美佐枝はその子どもらしい丸い頬を軽く撫でてから笑う。
「お父さんが、タカはケーキよりこっちの方が喜ぶだろうって言ってたけどほんとね」
「誰が来るの?」
美佐枝がその球団でも一、ニを争う人気選手の名前を挙げると、タカヤの目がきらきらと輝き始めた。今日はその選手を招いてのトークショーが催されるのだ。
タカヤは特別贔屓にしている球団はないらしい。今かぶっている帽子も、たまたま夏休みにデイゲームを見に行った時に父が買い与えたものだ。けれども、父に連れられて試合を見に行くことが多いその球団にはお気に入りの選手が何人かいるようだった。今日ゲストでやってくる選手もそのうちの一人だ。
しばらくすると、舞台袖から司会者の女性が現れて、イベントが始まった。大きな声で、今日のゲストである選手の名前を呼びましょうね、と促されると、タカヤは他の子どもたちと一緒になって大声で叫んだ。
拍手を受けて、ユニフォームを身にまとった選手がステージの上に上がる。タカヤの目はもう舞台の上に釘付けだった。
テレビで見るのと、また球場のスタンドから見るのとも違う。間近に見るプロ野球選手の体格のよさ、たくましさにタカヤはすっかり圧倒された様子だった。先ほどから、視線が少しも外れない。
大きい! すごい! 強そう!
タカヤの体を興奮が駆け巡って、走り出したいような気持ちになってうずうずとしてしまう。
イベントは、事前に募集されていた質問への回答から始まって、次にクイズコーナーへと移った。選手に関するクイズが出題され、それに正解した者はイベント終了後にサインをもらえるということもあって、イベントホールの熱気は更に上昇していくように思われた。