いつかの未来
勿論、熱を上げたのはタカヤも同じだった。タカヤはまだ小学一年生だったが、父親仕込みで色々なデータに詳しい。どんな問題にだって正解できると思っていたから、自信満々でクイズに臨んだ。
けれども、第一問目から続いた問題は、どれも選手個人の好きな食べ物やプライベートな内容のものばかりで、タカヤにはさっぱり分からなかった。だって、野球をしているところは知っているけれども、それ以外の場面で選手のことを見る機会なんてない。
タカヤは、隣に座っている母親に、手を挙げないの、と問われて、この問題ずるいよ、と訴えた。こんなの野球に関係ない。
すっかりむくれてしまったタカヤに、最後の最後でようやく分かる問題がやってきた。その投手が、今季で一度だけ達成した完封試合はどこのチームとの試合だったでしょう、というのがその問いで、タカヤは聞いた瞬間に、はい、と大きく手を挙げた。
「わあ、今すごく早く手を挙げてくれたお友達がいました。じゃあ、そこの紺のジャンパーの男の子」
司会の女性がそう言うと、スタッフの一人がマイクを持ってタカヤの元へやってきた。会場の人間の視線がタカヤに集まる中で、タカヤはその試合の日付と対戦チームの名前を答える。
「正解です! 今、日にちも答えてくれたけど、これは合っているんですか?」
司会が当の選手に尋ねると、彼は笑って頷いた。
「その日で間違いないですよ。よく知っているんだねえ」
その言葉に、会場からは感心した息がそこここで漏れた。
「タカ、すごいのねえ」
美佐枝がそう言うと、シュンも一緒になって、すごい、すごいとはしゃぎ始める。タカヤは賞賛をあびて、どうせならもっと難しい問題で正解したかった、と思いながらも、まんざらでもない表情を浮かべていた。
イベントが終了した後、先ほどクイズに正解した人だけがステージまで呼び集められた。タカヤたちはその列の最後尾について、順番を待つ。シュンはイベントが終わったところで飽きてぐずりはじめてしまったので、今は美佐枝に抱きかかえられてあやされている。
既にサインが記されたボールを手渡して握手をするだけなので、列は思ったよりも早く進み、タカヤの番になった。
選手の前に進み出たタカヤの顔を目にすると、彼は、ああ、さっきの、という風に笑みを浮かべる。
「よく覚えていたね?」
「八回に打たれなければ、完全試合だったのにって思ったから」
だから覚えてた、というタカヤに、その選手は参ったというような顔をしてみせた。
八回の安打は失投によるものだった。右打者の外角へ向けて放たれたストレートが、シュート回転して真ん中へ入ってしまったところを痛打された。それまで、これ以上はないというベストピッチをしていた投手が、不意に調子を乱したのが印象的で、タカヤはよく覚えていたのだ。隣で見ていた父も、野球は難しいな、と言っていた。
「けど、そのまま崩れちゃう人も多いのに、持ち直したからすごいです」
タカヤの生意気にも聞こえる言葉を、彼は笑って受け止めた。ありがとう、と言ってサインボールを渡そうとする。
その時、横合いにいた美佐枝がシュンをかかえたまま、あの、と声をあげた。
「その子、今日が誕生日なんです。それで、もし良かったら一球だけ投げてやってもらえないでしょうか」
母の言葉に、タカヤはびっくりして目をむいた。声をかけられた選手の方もはじめは驚いたようだったが、やがて、いいですよ、と微笑んでその申し出を了承した。
近くで見ていた子どもたちが、いいなあ、なんて呟いている。それを聞いて、タカヤは、途方もないいたたまれなさに襲われた。
母親というものは、どうしてこういう時に図々しいのだろう、とタカヤは思ってしまう。誕生日だからって、そんなことを頼むのはずるいって、どうして思わないんだろう。それこそ、彼のボールを受けてみたい子なんてそこら中にいるのだ。クイズに正解してサインをもらうのとは違って、ただ今日が誕生日だったというだけで、タカヤだけ特別にしてもらうのは、卑怯だと思う。
「おかあさん、いい」
タカヤがきっと喜ぶだろうと思っていた美佐枝は、急に口をへの字に曲げてそう言い出した息子に驚いた。
「どうして。投げてもらえばいいじゃない」
「でも、いい。誕生日だからって、ずるすることになる」
タカヤが片意地を張り始めた。こうなると、タカヤの意見を翻させることは難しくなる。
「せっかく、ミットだってあるのに……」
美佐枝がそう言うと、それまでなりゆきを見守っていた選手が、その場に屈みこんでタカヤに視線を合わせた。
「それ、君のミットなの?」
タカヤはぎゅっと両手に力を込めてから、はいと答えた。
「キャッチャーなんだ」
「はい」
「野球は好き?」
迷う暇なんてある訳がない。タカヤはすぐに頷いていた。
「さっき、八回に打たれたっていう話をしたよね。あの時の球、なんだったか覚えている?」
「ストレートです」
「うん、じゃあ今からそれを投げてみせよう」
そう言うと、彼はステージの端へ向かって歩き始めた。タカヤが、でも、と言うと、彼は振り返って言った。
「あの時のストレートが俺のストレートだって思われるのは嫌だからね。ちゃんと、本当のストレートを覚えて帰ってくれよ」
さあ、早く構えて、とその投手はタカヤを促した。そうまで言われては、タカヤも動かないわけにはいかなかった。それに、本当はタカヤだってボールを受けてみたかったのだ。
真新しいミットを手にはめる。慣らしが十分じゃないから、まだ硬くて手に馴染んでいるとは言えない。けれども、タカヤは絶対にこぼすまいと気合いを入れて、投手がいる方とは反対側へと駆けて行き、腰を下ろして構えた。
投手が立っているのはマウンドとは違う、平らな地面だったが、こうして下から見上げるとまた一段と大きく、力強く見えた。それじゃあ行くよ、とかけられた声に、タカヤはミットをひとつパンと叩いて応える。
彼はその場でぐっと体を伸ばして振りかぶった。タカヤには、その投手の動きのひとつひとつが、鮮やかに刻み付けられるように思えた。柔らかく持ち上がる左脚、一瞬の静止ののちに、解き放たれる力。
綺麗なバックスピンをかけた白球が風を切ってまっすぐに届く。タカヤはしっかりと受け止めた。左の手のひらに響いた衝撃、美しい軌道を描いた白い残像、その全てがタカヤを夢中にさせた。
イベントが終わって、ホールの人影はまばらになっていたが、残ってこの様子を見守っていた人たちがぱちぱちと手を叩いた。
拍手の音に、タカヤははっと我に返って、ナイスボール! と声をあげる。それから、ボールを持って投手の元へと駆け寄った。すぐ目の前にたどり着いたところで、タカヤは大きく身を折って一礼する。
「ありがとうございました!」
タカヤの幼い声が凛と響き渡った。