ほころぶ人
昼寝から目覚めるとすぐ近くでペン走る音がしていた。
カツカツと音がしては止まり、さらさらと滑ってはまた止まる。
音に誘われるように顔を上げて振り返ると、爆睡する田島の隣で、問題集を開いて落ちてくるまぶたと必死に戦っている三橋の姿があった。
「……がんばってんな」
思わず声に出してそう言うと、うとうとしかかっていた三橋の肩が大きく揺れた。
「う、おっ!」
「あー、ワリ。びっくりさせちゃったな」
体を起こしてそう詫びる泉に、三橋は大げさなほどにぶんぶんと首を振ってみせる。
オレ、大丈夫だよっ、と大きく声に出して言ったあと、はっと隣で寝ている田島に目をやって、声をひそめて、大丈夫だよ、と繰り返す。
泉は気にするなという風に頷いてから、三橋が開いている問題集に視線を落とした。
数式がいくつも並んだそれは、確か今朝阿部が朝練のあとに、これくらいやっとけよ、と三橋に言っていたものだ。
重要な問題にはご丁寧に丸がつけてある。
その丸も、問題番号の肩に控えめに小さく印をつけるなんてものじゃなくて、まるで三橋にはこれくらいしないと分からないだろうとでも言いたげに、赤のボールペンで大きくぐるぐると書きこまれていた。
「三橋はさー、うっとおしくねえの?」
泉の言葉に、三橋はきょとんとした表情をうかべた。
「うっと…う……しい?」
「投手大事はわかんだけど、阿部は時々ちょっとやりすぎなんじゃねえかってこと」
三橋が色々なことに不器用なのは知っている。
それを手助けしてやるのは、別に投手と捕手なんて関係でなくとも、チームメイトなら、友達ならば当たり前のことだ。
けれども、阿部の三橋への行為は、手助けというレベルを超えていることが多いように泉には思えるのだ。
今日だって、印を付け終えて三橋に問題集を返す時、阿部は「紙で指切るんじゃねーぞ、気をつけろよ」なんて言っていた。
そのくらい言われなくても気をつけるだろ、と近くで聞いていて思ったものだ。
泉には、阿部は三橋を何も出来ない赤ん坊のように扱っているように思えることがある。
そういう時、泉はいつも苦虫を噛み潰したような顔になってしまう。
苛立ちがかりかりと胸をひっかいていくのが不快なのだ。
「オレ…う、お、オレ……」
気がつくと三橋は眉を情けなそうに垂れてひどく困惑した表情を浮かべていた。
その顔を見て、泉は後悔をする。
泉には理解ができないが、三橋は阿部の干渉に不満はないらしいのだ。
というよりも、それをよろこんでいる節がある。
その三橋に対して自分の意見を押し付けようとするのは、阿部の過干渉とさして変わりがない行為に思えた。
「あー、三橋がいんなら、いーんだよ」
がしがしと頭を掻きながらそう言うと、三橋はこくこくと頷く。
「オレ、大事にされてる、の、うれしい、よっ!」
大事にねえ、と泉は胸の中だけで呟く。
自分だったら、いちいちうるせーな、なんて反発してしまいそうだと思う。
単純に、自分が世話をやかれるというのが嫌いだからかもしれない。
「い…ずみくんは、阿部くん、キライ?」
「あ?」
不意を付かれたような質問に思わずぶっきらぼうな声が出てしまう。
ごめんなさい、と慌てて謝る三橋に、気にすんなと手を振って泉は否定した。
「うぜえなって思う時はあるけど、嫌いとかはねーよ」
「う、おっ!」
自分のことではなく、阿部の話だというのに、三橋はひどくうれしそうに笑っている。
「オレも、阿部くん、好きだっ」
嫌いでなければ好きになってしまうのが三橋らしい、と泉は思う。
阿部のことはチームメイトとして普通に親しみを持ってはいるが、「好きだ」と改めて言葉にするのはなにか違和感がある。
けれども、三橋基準で言えば阿部が好きの分類に入るのは間違いないので、否定はしないでおいた。
ああ、だけれども。
「あいつの投手になるのは、オレはちょっとごめんだけどな」
泉が笑ってそう付け加えると、三橋は本当に不思議そうに目をしばたたいた。
自転車置き場まで来たところで、三橋はあっと気がついて慌てた。
鍵を外したチェーンを持ったままおろおろしていると、その様子を見とがめた田島が、どーしたあ、と尋ねてくる。
「ぐ、グローブ、忘れた!」
「お、マジ? チャリと荷物は見てるから、取ってきちゃえよ」
「うんっ」
田島の言葉に甘えて駆け出す三橋に、背中から、待っててやるから焦んなくていーぞー、と声がかかる。
振り返ってありがとうと告げながらも、三橋は走るペースは緩めなかった。
部室への道のりを走っていると、今日一日の出来ごとが取りとめもなく浮かんでくる。
昼休みに泉に言われた言葉は本当に不思議だった、と三橋は思い返す。
阿部がうっとうしいだなんて、思ってみたこともない。
むしろ、自分は阿部がいなければみんなの役に立つこともできないピッチャーなのだから、阿部にはいくら感謝してもしきれないくらいなのだ。
それになにより、阿部はこんな自分に、「頑張っている」と言ってくれた。
そのことがどれだけ三橋の力になっているか、泉は知らないのだろう。
そこまで考えて、ああ、そうかと三橋は思い当たった。
泉くんは、あの時の阿部くんを知らないからだ。
三橋の手を握って、頑張っているといって泣いてくれた阿部をしらない。
あんな風にされたら、誰だって阿部のことを好きにならずにはいられないだろう、と思う。
阿部の投手でありたいと思わずにはいられないだろう。
けれども、三橋はあの時のことを誰かに話す気にはなれなかった。
なんだか、もったいないような気がするし、話してその人が阿部と組みたいと思うようになるのも困る。
自分はずるいな、と三橋は思った。