ほころぶ人
部室の前まで辿りついたところで、三橋は乱れた呼吸を整えた。
もうみんな帰ってしまっていて、扉が開かなかったらどうしよう、と思っていたが、まだ中に誰かいるようだ。
ゆっくりと扉を開きながら、中を覗きこむと、テーブルのそばに立った阿部の姿が目に入る。
あ、グローブ、と三橋は思った。
三橋が取りに戻ったグローブは机の上に置き忘れていたようだ。
そのグローブに、阿部がそっと触れている。
横顔が、綻んでいる。
花、だ。
三橋の頭に浮かんだ言葉は、花、だった。
阿部のいつもは無愛想にもみえる顔が、ほんの少しゆるんで、やわらかくほどけている。
まるで硬いつぼみが開いた花のようだった。
あまりにじっと見つめていたからだろうか、阿部は視線に気がついてこちらに振り向いた。
三橋は、阿部の誰に見せるでもなかった表情を盗み見てしまったようで、どきりとする。
「おう、びっくりした」
阿部は目を丸くしてそう言った。
「あ、あべく……」
「これ取りにきたんだろ? 鍵閉めるかどうすっか迷ってたからちょうどよかった。ほら」
阿部は三橋のグローブを持ち上げて、手渡した。
「あ、ありがとうっ!」
「おー」
軽く答えて、阿部は、じゃー戸締りすんぞ、と告げて三橋を部室の外に追い立てる。
阿部が入り口のそばのスイッチに手を伸ばして明かりを消すと、周囲は一気に暗くなった。
がちゃがちゃと鍵を回しながら、阿部がそういえば、と思い出したように言った。
「それ、レース大分伸びてんぞ。そろそろ変えた方がいいんじゃねえ?」
「えっ」
三橋はわたわたと抱えていたグローブに目を落とした。
「使ってて違和感とかねーの?」
「う……」
阿部の問いに、三橋はうまく答えられない。
どうだろう? 違和感があっただろうか? よく分からない。
首をかしげながら頭に疑問符を浮かべる三橋に、阿部は少し呆れたように息を吐いた。
「お前さ、もうちょっと色々気ぃ使った方がいーぞ」
阿部は、ここだよ、と言いながら三橋のグローブのウェッブの部分を指す。
言われてみれば、よく見なければ気がつかない程度かもしれないが、確かに紐が伸びてゆるくなっているように思える。
「ほ、ほんとだっ」
思わず三橋がそう言うと、阿部は、な、と頷いた。
「お前、自分の体にも道具にも無頓着すぎんだよ」
阿部の言葉に、三橋は大きくうなだれた。
こんな所でも、自分は駄目なピッチャーだと痛感してしまう。
投げたい投げたいとそればかりで、他に気がまわっていないのだ。
うつむく三橋に、阿部は続けた。
「もったいねえだろ、お前頑張ってんのにさ。怪我とかグラブが駄目とかで投げるのに影響でたら」
当たり前のように阿部は言う。
だから、ちゃんと気をつけるんだぞ、とまっすぐ三橋を見つめて言う。
暗い中でもはっきりと分かる、強い目の力だった。
ああ、うっとうしくなんかないよ、泉くん。オレ、阿部くんが好きだよ。
三橋は大きく頷いた。
「うん! オレ、気をつけるよ!」
グローブを抱きしめるようにしてそう言う三橋に、阿部がふっと目を細める。
花だ、と三橋はまた思った。
けれども、その笑顔はすぐに消えて、またいつもの平静な顔に戻ってしまう。
「じゃー、俺は鍵返して帰っから」
そう言ってすたすたと歩き始めた阿部の背中に、三橋は精一杯の声で言った。
「ありがとう、阿部くんっ」
阿部は少しだけ振り返って、応えるように鍵を持った手を挙げたあと、さっさと帰れよ、と言ってまた歩き始めた。
三橋はその背中が消えるまで見つめていた。
あの花を、もっと見たいと思った。
オレが阿部くんの花を咲かせるんだ、と強く思った。