君待ち
中間試験も、残すところ明日の最終日のみとなったところで、三橋はとうとう我慢しきれなくなった。
(少しだけ。少しだけ、なら、いいよね)
一緒に帰ろうと誘う田島たちに、用事があるからと告げて校門で別れたあと、三橋はこっそり、その場所へと足を伸ばした。
(見るだけ。見るだけだから……)
そう自分に言い訳して、三橋は金網越しの景色を見つめる。試験週間に入り、部活動が禁止されてから、一週間かそこらしか経っていないのに、ひどく懐かしく思えるのが不思議だった。
いつもは、仲間たちの声がそこかしこに響くグラウンドには、しんとした静けさが落ちている。周りの木々に止まった鳥たちが時たま鳴き声やはばたきの音を立てるほかは、耳を騒がせるものもなかった。
三橋は、グラウンドの中でもある一点に視線をそそいでいる。そこだけ、少し土が盛り上がっている部分、ピッチャーのための場所。
マウンドは、まるで三橋を呼んでいるようにも思えたし、同時に、もっと他の投手を待っているのだとでもいいたげな顔ものぞかせていた。誘惑と拒絶の混じるその場所に、三橋はいつも、抗い難いほどに魅了されていた。
この場所は、今のところは三橋にいてもいいのだと言ってくれているが、いつまでそうであるかは分からない。中学生の頃は、いつもいつも怯えていた。日が沈んで、その日の練習時間は終わるたびに、明日こそは自分はここから追い出されてしまうのではないかと、怖かった。三年同じグラウンドで練習していたのに、ちっとも慣れることなく、部活のはじまりにはおそるおそる顔を出したものだった。
マウンドが、自分の居場所だとは、とうてい思えなかった。そこにいたいと願っているのは自分だけで、自分以外のみんな、部活の仲間たちも、彼らを応援する人たちも、学校中の誰も、世界の誰もかも、三橋がそこにいるのは間違いだと言っているように思えた。
その頃のことを思い出すと、今でも心臓がいやな風に冷たい音を立てる。鼓動のきざむ音が短く忙しなくなり、息が苦しいような思いがする。
三橋は、金網の向こうのマウンドを見つめる。ここで、ホントのエースになるのだ、と自分は決めたはずだ。イチバンの背番号だってもらった。不安になる理由はない。
けれども、三橋の心には、いつもほの暗いおそろしさが根を張っていて、安心させてはくれないのだった。
「おい」
不意に、後ろから声をかけられて三橋は飛び上がった。
「あ、う、お、おれ……」
すっかり動転しながら振り返ると、そこにはよく見慣れたチームメイトの姿があった。白い開襟シャツに学生服の黒いズボンといったいでたちはいつも通りだが、その格好で野球帽をかぶり、手に軍手をはめて、紙袋を提げているのは初めて見る。
「あ、あべく……」
「おー。お前、なにしてんだよ、こんなとこで。さぼってねーで、勉強しねーとやべーだろ」
阿部は眉間にぐっと力をいれて、三橋をにらむように見た。三橋はそれだけで縮み上がってしまう。阿部に怒られるのは、多分世界の誰に怒られるよりも、一等怖い、と三橋は思う。怒られて、嫌われてしまうのが、怖い。
「まさか、投げるつもりだったんじゃねーだろうな」
三橋はぶんぶんと首を横に振って否定する。試験週間中は、言われたとおりのストレッチと簡単な運動以外はしていない。それ以外の時間は、ほとんど勉強している。ほとんど、大体。うっかり眠ってしまう時間の方が長い日もあるけれど。
「なげて、ない、よ」
阿部は、三橋の答えに、ふうと息を吐いた。
「なら、いーけど。だったら、早く帰って勉強やりなよ」
少し声音を和らげて阿部は言った。優しい物言いに、三橋はふっと顔を上げて、阿部を見た。
「でも、阿部くん、は」
べんきょう、しないの。語尾に向かうにつれて小さくなる声で三橋は問うた。
「オレ明日数学と物理だけだもん」
事も無げに阿部はそう言った。その二つは阿部の得意教科で、授業で一通り基礎と応用問題をやってしまえば、「あとは出てきた問題を解くだけ」なのだそうだ。基礎問題から毎回つまづく三橋にしてみれば、うらやましいこと限りない話だ。
だから今日は特別勉強はしなくても平気なのだ、というのは分かったが、それなら、阿部は一体何をしにここへ来たのだろう。疑問をこめて阿部をじっと見ると、ああ、と阿部は答えた。
「ちょっと、草取りしようと思って。外野の方とかだいぶ生えてっし」
阿部が視線を向けた先を見ると、確かに、一週間前までは見られなかった雑草があちらこちらに姿をのぞかせている。
「試験終わったらすぐ練習だかんな。篠岡一人にやってもらうんじゃ悪ィし、オレも早く練習してーし」
そう言うと、阿部はフェンスの扉になった部分に手をかけて、グラウンドへと入っていく。
「お、オレも!」
気がつけば、三橋はそう叫んでいた。
「オレもする!」
振り返った阿部は、厳しい顔になって、あ?、と返す。
「お前は、勉強しなきゃだろ」
「そう、だけど」
「なに、明日は一教科だけとか?」
「さん……教科…だけど」
「ざっけんな!」
があっと阿部は感情をむき出しにして怒鳴った。三橋はびくりと震えたが、譲らなかった。
「ちょっとだけ! ちょっとだけ、だから」
だから、オレも、させてください。必死になって言うと、阿部の釣り上がった眉がゆっくりと元に戻っていった。
「……ほんとに、ちょっとだけだな」
「う、うん!」
「終わったらすぐ帰って勉強するんだな」
「……うん!」
「なら、来いよ」
阿部はフェンスの向こうからそう三橋を誘った。おいでおいでと、まるで子どもにするように手招きをしているのが、阿部の仏頂面と不似合いでなんだかおかしい。
三橋は飛ぶような気持ちで、しばらくぶりのグラウンドへと足を踏み入れた。
ここらあたりにすっか、と言って、阿部はしゃがみこんだ。真似をするようにすぐ近くに三橋が腰を落とすと、阿部は自分がつけていた軍手を外して、ほら、と三橋に差し出した。
「草っつっても、指切ったりもすっから、付けてな」
それからこれも、と続けて、阿部は自分の野球帽を三橋にかぶせる。まだ完全に夏にはなりきっていないが、よく晴れた日の陽光は強い。こうしている今も、むき出しの肌がぐんぐん熱されていくのを感じた。
「でも、阿部くん、は」
「オレはいーんだよ。慣れてっから」
そう言って、素手で草を抜き取ろうとしはじめる。三橋は慌ててその手を押し止めた。
「だめ、だよ!」
「なんだよ。大丈夫だっつの」
三橋が阿部の手を強く握って放さないので、少しびっくりしたような顔になって阿部は言った。三橋は首を振る。
大丈夫じゃない。
だって、この手は大事な手だ。
三橋の球を受け止めてくれる、とても大事な手だ。
阿部は、どうして、三橋を気遣う半分でも、自分のことを大事にしてくれないのだろう、と三橋は思う。
「……だめだよ」
握った阿部の手のひらと、三橋の手のひらの間に熱がこもって、じわりと汗がにじみ始めていた。重なった二つの手から視線を上げて阿部を見ると、阿部は、ひどく困ったような表情を浮かべていた。
「あー……」
三橋と目が合った阿部は、戸惑いの滲む声で唸る。