かげしるべ
榛名は不機嫌だった。ここに来るまでの間中、そんな顔を見せ続けられれば、元々それほど乗り気でなかったタカヤも、さすがに嫌気が差してくる。
7月になったばかりのこの季節は、まだ梅雨の残りの湿り気と、これから一層強くなっていく夏の気配とが入り混じっている。今日はとびきりの晴天だったが、からりとは晴れてくれない。熱された空気がむわりと立ち上り、肌をべたつかせていた。
球場の前まで来ると、あたりはぐっと賑やかになり、そのせいで必要以上にお互いの間の沈黙が重く感じられた。入場口の前には、白いテントが立っている。どうやら、そこで受付をしているようだった。
「元希さん」
いかにもけだるそうな足取りで歩いていた榛名を振り仰いで、タカヤは目で訴えた。榛名はくいと顎をしゃくって、お前が行け、と示すだけである。それから、あとはもう知らないとばかりに、大きくあくびをした。
お守りが必要だったのは間違いない、とそれを見たタカヤは思ったのだった。
全国高等学校野球選手権の埼玉大会、その開幕試合の始球式を榛名に、との指名が下ったのはひと月ほど前のことだった。普通であれば、よろこびそうな出来ごとである。けれども、監督から聞かされた瞬間、榛名はめんどくせえ、という表情をあからさまに浮かべてみせた。
榛名が、他人に何かを強制されるのをひどく嫌う人間であるということは、監督も十分わかっている。宥めるような顔になって、もしどうしても嫌だというのなら、肩に張りがあるだとかなんとか、理由をつけて断ってもいい、と告げた。
「まあ、せっかくだから、高校の大会のマウンドに立ってみるのも、悪い経験じゃないと思うよ。まだ返事は急がないようだから、しばらく考えてみなさい」
そう言うと、監督は両手の平を、ぱん、と合わせて、さあ練習、練習、と榛名たちを促した。
榛名は、監督から話を聞く前と全く変わらない様子で、悠然とブルペンに向かって歩いていく。その背中を追いかけながら、タカヤは問いかけた。
「断るんですか?」
榛名は振り返らず、答えも返さない。一度は近づいたかと思われた榛名との距離は、関東大会でのあの試合からこちら、また随分と開いてしまっていた。タカヤは未だに榛名のことを腹に据えかねているし、榛名もまた、そんなタカヤをうっとうしく感じているようだった。
「……始球式なんて、空振りすんのがお約束なんだから、どんな球投げたって一緒ですよ」
ブルペンまでたどり着くと、榛名は足場を均しはじめた。スパイクを履いた足先が薄い土煙を立てる。榛名は、タカヤを見ないまま、何が言いてーんだよ、と言った。
「別に、どうでもいいですけど。あんたの球見せて、高校生をびびらすのも面白えんじゃねーかって思っただけです」
それだけ言うと、タカヤはくるっと背を向けてしまったので、榛名が興味有り気に少しだけ顔を上げたのに気がつかなかった。適当な距離をとって、タカヤがさあとミットを構えて向き合った時には、榛名はまた元のつまらなそうな顔を取り繕っていた。
それきり、その話は上がらなかったので、タカヤはてっきり、榛名が始球式の指名を断ったのだと思っていた。だから、監督に榛名の付き添いとして一緒に開幕試合に行くように、と告げられた時は、ひどく驚いたのだった。
タカヤがもうひとつ驚くはめになったのは、開幕試合当日の、待ち合わせの駅でのことだった。約束の場所にやってきた榛名は、先に来ていたタカヤを目にするなり、じろりと頭のてっぺんから足の先まで見回した。そうして、あるはずの大きな荷物が無いことを確認すると、防具は、と聞いたのだった。
「は?」
「防具どうしたんだよ。いっちばん大事なもの忘れてどーすんだよ!」
「や、ミットはちゃんと持ってきましたけど」
タカヤは榛名のウォーミングアップに付き合うために、ミットは念のため持ってきていた。球場での「正装」という意味で、ユニフォームも身につけてはいるが、ただの付き添いにすぎない自分に、それ以上必要なものがあるとは思えない。
「座って受けるにしても、アップでそんな本気で放らないでしょ」
「……おめーが! 言ったんだろーが!」
榛名はいきり立ってそう言った。
(言った? なにを?)
タカヤが首を傾げていると、榛名はすっかり不機嫌な顔つきになって、もういいとばかりにずかずかと歩き出した。
「ちょっと、元希さん! 切符まだ買ってないでしょ」
慌てて追いかけるタカヤをちらと見やり、早くしろよ、とだけ言いおいて、榛名は改札の前で立ち止まる。
タカヤは、券売機まで走って向かい、監督から預かった封筒の中から、遠征費の小銭をじゃらじゃらと取り出した。短く刈った頭を反らせて、路線図で目的地までの電車賃を確認しながら、先ほどの榛名の言葉を反芻する。
小銭を投入口に一つずつ落としていく。チャリン、チャリンと音をたてるのを耳にしているうちに、タカヤは、あ、と思い出した。
(オレが、元希さんが本気の球を投げたら面白いって言ったから、か……?)
発券された切符を手に、タカヤは改札口へと向き直る。相変わらず、神経質に口を曲げた榛名がそこにはいる。
今更、そんなことが分かったからと言って、どうすればいいというのだろう。タカヤの防具は昨日手入れをしたまま、家に置いてある。
(それならそうだって、言えばいいだろ)
言わなくて、伝わるわけなんかがない。そう思いながら、タカヤは榛名の分の切符を一枚差し出した。無言で受け取って、榛名が改札を抜けていく。
その背中を追いかけながら、タカヤは、きっと自分と榛名はずっとこんな風なんだろうと思った。もう少しうまくやりさえすれば噛みあうだろうに、何かが決定的にずれてしまっているのだ。そうして、タカヤはもう、その二人の間のずれを埋める気をなくしてしまっているのだった。
始球式で投げると言っても、そのウォーミングアップのためにわざわざグラウンドを貸してくれるということはないようだった。受付で、今日の始球式で投げる予定で、アップをしたいのだ、と伝えると、係員は少し戸惑ったような様子を見せた。
結局、球場外の、今日は使われていないゲート前のあたりを指定された。そこならば、一般客はあまり来ないだろう、ということだ。
まずは、念入りにストレッチをする。組んで一年が経とうとする今では、榛名のやり方を、タカヤはすっかり心得ていた。ことさら言葉を交わすこともなく、淡々と、無駄のない動きでストレッチメニューをこなしていく。
榛名の筋肉は、きれいだ、とタカヤは思っていた。こうしてひとつひとつを丁寧にほぐして、伸ばしているのを見ると、つくづくと思う。ただ漫然とついたものではなく、榛名が自分で意識して、ここまでつくりあげたものだと分かる。
ストレッチを終えたところで、いよいよキャッチボールだ。タカヤは、バッグの中からミットを取り出して、左手にはめた。
はじめは、近い距離から。一球放るごとに、お互いに後ろへ下がっていき、ちょうどマウンドとキャッチャーボックスほどの距離まで来たところで、榛名が顎をしゃくった。タカヤは頷いて、その場で腰を落とし、構える。