レ・ミゼラブル
違和感は何度もあった。
けれど、口をつぐんだ。
背を向けて、知らないフリをした。
足元が見えないから、自分の立ち位置すら分からないから。
何か一つでも暴いて、バランスが崩れるのが怖かった。
飛び立てばいつでも地獄だから。せめて皆と会うときだけは。何も知らない、戦争の痛みなどまだ何一つ知らなかった、最初のままでいたかった。
今思えば、それは皆同じだったのかもしれない。
軋む痛みは消えないし、吹き出す血は抑えられないから。傷口を舐め合うように、楽しかった過去に縋った。
自分はずっと知らないフリをして、現実に振り落とされないように“上辺だけの今”にしがみ付いた。何の解決にもならなくても。そうやって、ずっと生きてきた。
パールハーバーの直後。
日本との外交が途切れた後でも、ワイルドキャット――ノラは、あの島国を目指して飛び立った。傍らに、いつも同じ、小さな花束を抱えて。
彼が彼女のことを大切に想っていたのは、もはや周知の事実だった。
零戦との戦闘。ヘルキャットの台頭。自分の存在を否定していたノラにとって、彼女との出会いは、自分の足で立ち直るただひとつのきっかけだった。
格納庫から、ノラがいなくなったことを気付かれないように。どこに行っているのか分からないように、人の目を誤魔化した。
その前から、ノラがヘルの態度に我慢できずに家出したり、格納庫に引き籠もることはあったから。上司もそこまで不審には思わなかったのだろう。
だから。そのどれもが、報告書に残ることはなかった。
きっと今後も残ることはないから、人が知ることはないのだろう。最も、知らなくていい。
民族も国境も敵味方も。何もかも越えてしまっても、必要と思う相手に巡り合えるのは、自分には純粋に羨ましかった。
飛び立つノラを見上げて、日差しに目を細めて、知らず微笑んでいた。それは焼け付いた大地に、温かな雨が降るように。優しく自分の心を溶かした。
ノラの飛行は、だんだんと間隔が空きながらもしばらく続いた。
たまにヘルに野次を飛ばされたり、ヨーキィに小姑めいた事を言われると、ノラは怒っていじけて机に突っ伏した。そうやって皆で笑い合った。
その瞬間だけは、いつでも時間が止まっていたような気がした。
だから気付かなかった。
ノラは笑っていたから。
そうやって、東の空に飛んだから。
彼らの時間は止まっているのだと思っていた。
たとえ開戦しても。
たとえ敵同士になったとしても。二人の時間は、まだ幸せだったあの頃のままだと。
誰一人。
ノラと武蔵が会っているのを、
見た者はいなかったのに。