レ・ミゼラブル
良い国と、悪い国が争っている。
良い国の人は、みんな良い人で。悪い国の人は、みんな悪い人で。
悪逆卑劣を働く悪い国は、神様の罰を受けて、必ず良い国に滅ぼされる。
自分は前者で、この力は悪い国に罰を与えるためのもの。
プログラムに組み込まれるように、それはすぐに刷り込まれた。
それが正しいと思っていた。
今考えれば、酷く滑稽な話だ。
頭でっかちの空っぽの心で、戦略だけ与えられた。ワシントンと名付けられたのは、そのすぐ後だ。自分は戦艦と呼ばれた。すぐ傍にいる“人”と、自分は違うのだと知った。それなのに人と同じ姿も与えられた、心と言葉を与えられた。あるべきではないものを、あってはならないものを与えられた。
期待。信頼。不安。疑問。嫌悪感。
自分の航路を進むたびに。
ひとつひとつ。ひび割れるように、積み重なっていった。
一番最初に生まれた疑問。それは、停泊中の夜のことだった。
その日は、夜中に何度も目が覚めた。原因は、淀むように感じる、艦内の空気の悪さだった。
それはそのまま、自分に変調をきたした。
機関士から、神経質な人間のようだ言われたこともある。何でもない会話の中、さらりと滑ったその言葉は、少しだけ自分を蝕んだ。
寝返りを打つ。船体を打つ波の音に、耳を澄ませた。
艦が波に揺らぐ。まるで自分自身の心のように、重く揺らいだ。
実際の戦場に出れば、人間は自分の想像とはずいぶんかけ離れていた。
決して足並みが揃っているわけではない。陰口を叩いたと思えば、本人の前では言葉で持ち上げる。弱者には高圧的、強者には媚へつらった。
それはまるで。
幼い心で思い描いた、悪逆非道の悪い人だった。
「……?」
話し声がした。
耳を澄ます。甲板のすぐそばの階段。二人。船底の仮眠室にいるままでも、自分の身体のことはすぐにわかった。
険悪な声。その人物に思い当たって、正直またか。と眉をしかめた。
現指揮官である艦長と、それに次ぐ力を持つ少将。表向きは、理想的な上司と部下だった。だから、この二人が啀み合っていることは、皆が寝静まった後でも艦内の様子を感じ取れる、自分しか知らないのだろう。
理由は知らない。知りたくもない。
押し殺したような怒声が、潮風に散らされる。
信号旗がはためく音。ピンと張り詰めた空気。乱暴に床を踏みしめる足音。艦長が、重扉に手を掛けた、そう感じた瞬間だった。
「……え?」
鈍く、砕かれる音。
確かに、鈍器で何かを殴る音と、弱々しい誰かの呻き声を聞いた。
そして次の瞬間には、海面に、何かが投げ込まれるような音がした。
それは先日の作戦で、戦死した下士官を海に葬った時と、あまりにもよく似た音だった。
力任せにシーツを手繰り寄せる。耳を塞いだ。心臓が早鐘を打つ。
そんなはずはない。これは悪い夢だ。そう、何度も繰り返した。
思えば、期待は常に裏切られた。
翌日。艦長は、海面に浮かんだ姿で発見された。
他の乗組員から一歩下がったところで、作業を見守った。兵器らしい無表情を装った。本当は、足も口も、貼りついたかのように動かなかったのだ。
「事故か心臓発作ではないか?」
声のしたほうを見る。少将が、艦長の遺体収容を断念すると、駆逐艦に伝えているところだった。
艦長に持病があったのは、もはや周知の事実だった。異を唱える者は誰一人いなかった。
「彼は本当によい指揮官だったのに…」
とても、残念だ。と、肩を落としてうつむく彼に、皆が励ましの声をかけていた。
持ち場に戻れ。と声がする。
それまで人で混雑していた甲板は、潮が引くように流れ始めた。
その、人の流れが途切れる一瞬。うつむいたまま、一瞬だけ。口角を少しだけ上げて、彼が笑った。
誰も見ていない。誰も気付かない。
誰も、知らない。
翌日。彼は全くのいつもどおりで、自分と対面した。
今度は、少将ではなく。戦艦ワシントンの新しい艦長としてだ。
握手を求められた。抗うこともできずに応えると、彼は支配者然とした表情で笑った。
まるで、何もなかったかのような笑みだった。
目眩がする。
気持ちが悪くて仕方なかった。
引継ぎを終えると、甲板に出て、なけなしの胃の中の物をすべて吐いた。
よい国にはよい人しかいない。
悪い国には、悪い人しかいない。
悪い国の悪い人には、神様から罰が与えられる。
艦長には、天罰が与えられたんだろうか。それならば、彼は何をしたのだろうか。
自分が共に往こうとしたあの人は、本当は悪い人だったのだろうか。
どこまでが正しくて、どこまでが間違っているのだろうか。
何が正しいんだろうか。
幼い自分の幼い心。
裏切られる度にひび割れて、疑問だけが積み重なった。