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For Letter Words

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 長い長い時を経て、「ロシア」の名を再び取り戻した男が通り過ぎるのを、イギリスは落ち着かない気分で待っている。
 明るいガラス張りの壁に囲まれた、モダンな建物の中は、様々な国家や職員が行き交う。そのど真ん中で、大きな旅行トランクを従えて立ちはだかるイギリスは、明らかに人々の好奇の目を引き付けている。だが、この視線こそが大事なのだ、と自分に言い聞かせて、イギリスは殊更胸を張り立ち続けた。
 やがて見慣れた長身が、廊下の向こうからゆっくりとやってくるのが視界に入り、背筋を伸ばす。淡いサンドグレーのコートを手に、地味な灰色のスーツと相変わらずの長いマフラーと言う出で立ちで、どれだけ経っても、体制が変わろうと、奴のセンスのなさは筋金入りだなと思って、口元が緩んだ。ロシアの方も、広いとは言え廊下の真ん中に陣取ったイギリスに気づくと、微笑みながら怪訝そうに首を傾げた。
「そこ、邪魔になってるよ、イギリス君」
「何、すぐに退くさ」
「そう、じゃあ僕も通してくれるかな」
 さりげなくロシアの前に立ち、行く手を阻むイギリスに、ロシアが若干苛ついたような口調で言う。それをにんまりと見上げ、イギリスはまあそう言うなよ、と鷹揚に腕組みをした。
「えー、何、むかつくんだけど」
「そうかそうか。そりゃ結構だ」
 挑発に乗らないイギリスを、ロシアが目を丸くして見下ろす。そして、何か悪いものでも食べたのかな、と一人語ちる。それでも黙ってロシアを見つめるイギリスに、ロシアも戸惑ったように口を噤んだ。ふ、と二人の間に訪れた沈黙に、ロシアが居心地悪そうに目を逸らす。
「これ、な。お前にやろうと思って」
「……何?」
イギリスはずい、と傍に置いていた旅行トランクを指差した。
「そんな大きなもの、僕に持って帰れって言うの?」
同じように指差して、ロシアが眉尻を下げる。
「別に、中身だけ持って帰って貰ってもいいんだが、トランクがあった方が運びやすいかと思ってな」
「……中身は何なのかな。お断りできるもの?」
「お前にお断りなんて選択肢はねぇ。見りゃ解る」
「今開けろってことかな?」
「とっとと開けやがれ」
 今度はイギリスが目を逸らす番になった。いざとなると、頬に血が上る。同時に苛々の虫が体の中を這い回りだし、それらを散らすために忙しなく爪先を床に打ち付けた。ロシアは緩慢な手つきで、不器用そうにトランクを横倒しにし、その前にしゃがみ込むと、鍵をぱちりぱちりと外す。ギっと蝶番が軋んだかと思うと、ロシアの足元には忽ちの内に、雪のような白い山が出来た。
「何、これ」
掠れた声が、小さく呟く。
「てめぇの目は節穴か! 見りゃ解るっつってるだろうが!」
 完全にロシアに背を向けて、イギリスは怒鳴り散らした。説明などする気はさらさらない。ロシアに渡すことが出来ればそれで良い。あとは、ロシアがそれを読もうが捨てようが、ままよ、と言う気持ちだった。
 ロシアを一顧だにせず、イギリスはずかずかと足を踏み出した。後ろからロシアが何か言っていたが、血の上った頭では、その言葉を拾うことが出来ない。廊下の角を曲がった途端、我慢できなくなって普段の身の慎みはどこへやら、廊下を猛然と駆け抜けて、突き当たった非常口から裏庭に飛び出た。
 柔らかい草を踏み締め、人気のない裏庭を宛てもなく歩き回る。ひらひらと様子を伺いに来た隔世の連中の相手をする気にもなれず、とうとうその場に尻餅を着くようにして、座り込んだ。
 長い、長い時間をかけて、漸くロシアの賭けに思いつく限り最大の手で応えることが出来た、とイギリスは嘆息する。ロシアの手の裡のカードが、七十年前と同じとも限らない。寧ろ、その可能性は限りなく低い。それでも待ち続け、黙々と手元の賭け金を増やし続けた自分自身を、馬鹿じゃなかろうかとも思うが、残念ながらイギリスとはそういう性分の男なのだった。
 あぁ、と再び嘆息して、空を仰ぐ。七十年は、国にしてもやはり長いと思う。ほぼ人一人の生涯分の時間、自分なら待てるだろうか? きっと待つだろう。諦めたり、負けを認めたりすることは苦手な質である。反して、ロシアは――よく判らない。直ぐに諦めることもあり、恐ろしく執念深いこともある。願わくば、イギリスに対する気持ちが後者に分類されていますように、と祈る他ない。駄目ならば――今度こそ諦めよう。

 あーあ、と伸びをしてそのまま倒れこむ――と、突然視界がロシアで覆われて、イギリスは心臓が止まるほど驚いた。
「ななな、なんだ!? 勝手に俺の前に顔出すんじゃねぇこの白熊野郎!」
反射的に罵倒してしまい、慌てて自分の口を手で押さえる。逆様から覗き込んだロシアは、呆れたように首を傾げている。
「君が口にする言葉と、君の手紙の言葉、僕はどっちを信じたらいいのかなぁ」
 拗ねた様な口ぶりだが、ひんやりと冷たい、不器用で太い指がそっとイギリスの頬に触れて来る。その指を絡め取って、イギリスは自分の額に押し当てた。
「……だからお前は馬鹿だっつってんだよ。そんなもん、」
そんなもの、意味は同じ、唯一つに決まっている。

 答える代わりに、ロシアの首っ丈にしがみつく。悲鳴を上げ、バランスを崩して自分の上に倒れこんできたロシアに、イギリスは思い切り口付けたのだった。
作品名:For Letter Words 作家名:東一口