For Letter Words
大戦争の終結から実に三年も経ってから、漸くロシアが――今もまだ、ロシアと彼を呼んでいいのであればだが――イギリスを訪ねてきた。それまで何の音沙汰も、連絡もなかった。手紙の一通もなかったし、イギリスが出した数通の手紙は、届いたのかどうか、行方さえ知れなかった。
そんな中で突然、小間使いが慌てた様子でイギリスにロシアの来訪を告げた。いつも着ていた華美な帝国の軍服姿ではなく、地味な色味のコート姿で小型のトランクを片手に、若干窶れたような面もちで玄関先に佇む長身を、イギリスは難しい顔を崩さぬまま暫し睨み付け、顎で中に入るよう促した。
すぐ帰るよ、と言い訳のように呟き、ロシアはイギリスの後を追ってきた。客間で座るように示すと、首を振ってトランクを机に置く。ぱちん、ぱちんと覚束無い手つきで錠を開いたかと思うと、トランクを机の上でひっくり返す。呆気に取られたイギリスの目の前に、忽ち白い小さな山が出来上がった。
「ごめんね、貰ったお手紙、返しに来たんだ。うちに置いとくと、捨てられちゃいそうで」
表情の抜け落ちたような顔で、にこりと形ばかり微笑みながら、ロシアが言う。
「そうかよ」
不思議なほど落ち着いて、イギリスも答えた。
「じゃあ用は済んだんだな。……帰れ」
「うん、帰るね」
空っぽのトランクをぶら下げたロシアの後ろ姿が、廊下の向こうに消えるのを、イギリスはぼんやりと眺める。
「ははっ……別にロシアみたいな田舎熊なんて、土台俺には釣りあわねーんだ」
いよいよロシアが玄関を出ていくのを、そう呟きながらイギリスは応接間の窓から見送った。強がってはみたものの、アプローチを歩いて出ていくロシアが、最後に一度だけでも名残惜しげに振り返るような気がして、窓際から離れることもできなかった。そしてロシアは最後まで振り向かなかった。
ロシアが門扉を潜り抜けて、道の向こうに本当に見えなくなるや否や、堰を切ったように喚きながら、イギリスは手紙の山の載ったテーブルを思い切り蹴り倒した。
テーブルクロスをひっつかみ、床に叩きつける。椅子も、サイドテーブルも、蹴り倒し、飾り棚の置物をなぎ倒し、勢い余って自分が床に倒れ込んでやっと、手足の発作は収まった。代わりに、子供のように声を上げて泣いた。
夜半になって、強か酔った頭で、イギリスは暖炉の前に陣取った。赤々と燃えて揺れる炎を見つめ、また一口、琥珀色の酒を呷る。
そしてロシアの持ってきた手紙と、自分が受け取った手紙を合わせた山から、一枚手に取り、おもむろに火にくべた。音も立てず、手紙は炎に触れた部分から黒く変色し、すぐさま灰になって燃え落ちていく。
一通目が間違いなく灰になったのを見届けて、イギリスは僅かに口を歪めた。二通目、三通目と続けて投げ込んでいく。見慣れた自分の筆跡で宛名書きされた封筒は、次々に灰と化していった。
十数通目を投げ入れようとした時、アルコールで鈍った頭にふと引っかかるものがあって、手を止めた。最初は何か解らなかったが、ぼんやりと表書きを眺めている間に、稲妻に打たれたような衝撃を受け、イギリスは思わず声を上げた。
その手紙は、表書きがイギリス宛になっていて、しかも開封されていなかった。震える手で、イギリスはもどかしく手紙の封を切り、真っ先に最後の一葉を見る。日付は今から四年前の夏だ。
「何だよ、どういうことだよ」
文面を目で追うが、ロシアの手による文字ということだけしか理解できない。間違いなく英語で書かれているのに、内容が全く頭に入ってこない。
手紙を脇に避け、イギリスはふらつく足で立ち上がると、バスルームへ駆け込んだ。シャワーの水栓を捻り、水を出してその下へ頭を突き出す。冬の水は身を切るように冷たかったが、お陰で多少酔いを醒ますことができた。濡れた前髪を乱暴に掻きあげ、イギリスは寒さに震えながら暖炉の前へ足をもつれさせながら戻った。
投げ出された手紙を拾い、もう一度目を落とす。顔の上を流れる水滴を、何度も手の甲で拭い上げながら、手紙を読む。一通を読み終わると、次を拾う。次の次を拾う。
内容は大半、日常のことだった。殆ど日記と言っても良い。戦争や革命に触れている手紙はない。最後の方には必ず、イギリス君は今どうしていますかと訊ね、続きはその時の気分によるものか、風邪を引かないようにと心配していることもあれば、飲み過ぎて死んでしまえばいいのに、と辛辣に書かれていることもあった。
ただ、それでも最終行には必ず「愛をこめて」の一言と、日付とサインが添えられていた。
手紙は明らかに書き殴ったものもあれば、丁寧に文字を飾ったもの、落書きのされたものもあり、中には紅茶をこぼしたらしい、茶色い染み付きのものもあった。そして幾つかは涙でもこぼしたような、インクの滲んだものも混じっていた。
未開封のものだけを避けた山から、半分程を読み終わったところで、ふとこれまでと雰囲気の違う文面の物に行き当たった。便箋は二枚しか入っていない。最後の一枚を先にめくると、日付はつい一昨日になっている。喉の奥を、ぎゅっと強く掴まれたような痛みを感じながら、イギリスはその手紙を恐々読み始めた。
そこには、これをもう最後の手紙にすること、貰った手紙を返すことなどが、イギリスに宛ててと言うよりは、ロシア自身の決意表明のように書かれていた。何故その決意をしたのか、何故これまで宛てのない手紙を書き続けてきたのか、記述は一切ない。淡々と、ただの箇条書きのように「手紙はもう書かない」だの「貰った手紙は返す」だのから、「強くあること」や「信じること」などの文章とも言えない文章が、ぽつりぽつりと連なっている。
最後は、いつもの決まり文句ではない。英語でさえなく、更に書いた上から斜線を幾つも引いて、何かの単語を消してあった。
「んだよ、気になるだろ……」
矯つ眇つしながら、やっと読み解いた単語の一つは、恐らくロシア語で「Правда」――真実、だった。
一体何が真実だというのだ。イギリスは途方に暮れて天を仰いだ。
ただ、解ったこともある。イギリスが絶望するには、まだ早いと言うことだ。この手紙の山を、自分で処分せずに、イギリスのところへ持ち込んできたのだから、そう信じても良い筈だ。イギリスが激怒して、手紙を燃やしてしまうか、その中にロシアの新たな手紙が混じっていることに気づくかどうか、ロシアは賭けたに違いない。
「俺は負けたのか?」
自問し、自答する。負けてなどいない。これから勝ちにいくのだ、ロシアと。手紙の山を胸に抱え込んで、イギリスは暖炉の前で突っ伏した。
作品名:For Letter Words 作家名:東一口