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そんな一年前のことを思い出して、僕は顔が熱くなるのを感じた。
あまりにも女々しくて、情けなくなる。
先輩は覚えているだろうか、とぼんやりと思って直ぐにそれを否定する。
一々そんなこと、覚えてなんかいないだろう。
それはそれで悲しいけど、今でもずっと一緒にいてくれるからいいんだ。
(でも、先輩は……今年、)
三年生の先輩は、今年卒業してしまう。
卒業後はどうするのか、進学するのか就職するのか、僕は知らない。
ううん、知りたくなかったんだ。
たった一歳の差だけど、その差は一年もの長い時間、先輩を遠くにやってしまう。
怖かった、辛かった、苦しかった。
離れてしまうという事実がこんなにも嫌だなんて、考えもしなかった。
「臨也……せん、ぱ……」
ぼんやりと名前を呼んだ時、携帯電話がちかちかと光って、日付が変わったことを知らせる。
一月六日、そう表示されたディスプレイを見て、涙が溢れそうだった。
来年もその先も、ずっと迎えられるのだろうか。
この日を、先輩と付き合い始めた日として。
気づけば視界が霞んで、ぼろぼろと溢れた涙が膝を濡らしていた。
先輩、せんぱい、心の中で何度も何度も名前を呼んで。
先輩は今、僕を想っていてくれますか。
そんなのは愚問だと、自問自答した時、だった。
ピンポン、と玄関のチャイムが鳴り、客の来訪を知らせたのだ。
こんな時間に、一体誰。
開けない方がいいんだろうか、と逡巡しながらドアノブに手を掛ける。
もう一度ピンポン、と急かすように鳴り響いて、僕は恐る恐る鍵を開けた。
すると、勢いよく玄関のドアは開け放たれ、そこには、
「や、ぁ……帝人、く、ん」
そこには、今の今までずっと想っていた臨也先輩がいた。
荒い息、汗ばんだ身体、だけど強い眼光。
見覚えのある、光景。
(…あ、)
一年前、あの日のものと重なって、蘇る。
「っ、なんで、泣いてるの…?」
「え……あ、」
そう言えばみっともなく泣いている途中だった。
慌てて袖で拭おうとすれば、一足早く先輩の指が目元に添えられる。
そっと涙を拭われて、先輩は優しく訊ねてくる。
「何が、あったの?俺には言えないようなこと…?」
「ち、ちがっ……違う、です」
また涙が溢れそうになって、でも一生懸命堪える。
すると先輩は笑って、僕をぎゅうっと抱きしめてきた。
「っ…せん、ぱ……」
「ねぇ帝人君、覚えてる?」
「ぇ、?」
「俺、丁度一年前に君に告白したんだよ」
「っ…!」
「本当はもっと早くに告白したかったんだ、でも勇気が出なくて言えなくて…結局冬休みも最後になってた。
でも学校が始まって、また先輩と後輩の関係で過ごすのは嫌だった。だから、」
みっともないけど、慌てて告白したんだ。
先輩が長い指で僕の髪を梳きながら話してくれた言葉に、僕は息が詰まる。
先輩は、覚えていてくれた。
一年前の今日を。
「帝人君、一年前の今日、俺の気持ちを受け止めてくれてありがとう」
――そんなこと、そんな優しい笑顔で言わないでほしい。
離れた時、苦しくなる。
忘れられた時、悲しくなる。
もう、二度と忘れられなくなる。
我慢していた涙がまた溢れてきて、先輩の服を濡らした。
帝人君は泣き虫だな、そう言って先輩はぽんぽんと僕の背中を叩く。
「せん、ぱ……僕、ぼく…こわいっ!先輩と、はな…れるの、が…こわいんですっ」
「うん、」
「ゃ、だ…いやだ、離れたくない…っ!」
「うん、」
僕の子供染みた我侭を聞きながら、先輩はぎゅうと僕を抱きしめる。
ごめんなさい、でもどうしようもないんです。
これが僕の本音なんです。
ごめんなさい、子供でごめんなさい。
「大丈夫、俺はずっと帝人君を想ってるよ」
だからこれを、君にあげる。
僕を腕から解放した先輩は、左手の人差し指からいつもつけている指輪を抜き取った。
そして僕の右手を取ると、そのままその指輪を、
僕の薬指に、はめた。
「……せんぱ、」
「これじゃあ駄目かな?俺が君をずっと愛する証にならない?」
少しだけ困った風に笑いながら、そっと僕の右手を握りこむ。
冷たくで、でも心地良くて。
ずっと変わらない、先輩の温度。
「……先輩は、ずるい」
「帝人、君?」
「こんなの……十分すぎるくらい、なのに」
ぽた、ぽたと涙が指輪の上に落ちて、弾けた。
指輪はちょっと僕には大きいけど、それでも嬉しかった。
先輩はきょと、と僕を見ていたけれど、直ぐにそれは優しいものに変わる。
「ありがと……ございます、先輩」
「これからも、一緒にいてね。帝人君、」
返事の変わりに一年前みたく先輩の腰に抱きつけば、先輩は笑いながら抱き返してくれる。
指輪が、月明かりの中できらりと光っていた。
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(一年二年じゃ終わらせない)