あのひと(前)
けれども、今阿部が一番強く抱いているのは、途方もない、理由の分からない喪失感だった。
榛名は、チームのため、最後まで投げきった。おそらく、今日の試合は榛名の言う「自分で納得した試合」なのだろう。あれほど拘っていた球数制限を、捨ててもいいと思わせるほどの試合だったのだろう。
今の榛名元希は、阿部がこれまで思ってきたような、最低の投手ではなくなってしまった。武蔵野第一高校野球部の一員として、それから、本当の意味でのエースとして、戦ったのだ。
それなら、元希さんは、どこへ行ったんだ。
理屈に合わないことを考えていると、阿部は自分でも分かっていたが、それでも思うのを止めることができなかった。中学生だった阿部の心をまるごとさらって、それから粉々になるまで壊していった、あのひとは、一体どこへ行ったのだろう。
自分を馬鹿だと阿部は思った。阿部の中の榛名はずっとマウンドにいたのだ。阿部が作った、「最低の投手」というマウンドに立って、傍若無人に投げ続けていたのだ。
しかし、榛名はそんなところにいつまでも留まっていてくれるような男ではないのだと、どうして忘れていたのだろう。
阿部は、榛名がマウンドから降りていく背中が見えるような気がした。その背中は、80球がきたから降りるのではない。81球目を投げるために、降りていくのだ。
それが分かった時、阿部が知っていた榛名元希という世界は終わりを告げた。