あのひと(前)
渡り廊下の途中で、走りながらこちらへ向かってくる一団が、あ、と声を上げたのに気がついた。
「阿部ーっ! 飯だぞー!」
「ご、ごはんっ」
そう言いながら大きな足音を立てて駆け抜けていく。まるでどちらが早くたどり着けるかを争っているかのようだ。
「あ、おい三橋!」
叫んだ声は遅く、既に三橋は田島と共に校舎の中へと消えていった。つむじ風のように去っていった二人を見送っていると、少し遅れて他の部員たちもやってきた。
「あいつら、元気だねえ。俺、もうへとへとだよ~」
情けない声を上げるのは水谷だった。隣で栄口が、あははと短く笑う。
「まだこれから夜練もあるだろ」
「それだよ~。俺、動けっかなあ」
「飯食ったら復活するって」
泉がまぜっかえし、水谷の言葉に巣山が励ましを送り、皆わいわいと騒ぎ出す。
「今日、晩飯なに?」
「食事当番、お前のかーちゃんだろ。聞いてねえの?」
「学校で話とかしないよ~」
「つーか、家でもしねえし」
「えっ、そう?」
「俺はしねー」
「うん、しないな」
「えー、話すよー」
ざわめきの輪から、阿部は少し遅れて歩いていた。元々それほど積極的に輪に入る方ではないというのもあるが、今は膝のリハビリ中なので、ただ歩くのも慎重になっているのだ。
外れて歩く阿部に、ふとこちらを振り返った花井が気がつき、栄口と共に輪を離れてやってきた。
「お疲れ」
「おー」
花井が隣にくると、その長身が作る影が阿部の前にかかった。反対側に栄口がつき、阿部の手にもったものを指でつついて尋ねた。
「阿部は何してたの?」
「あ? これ? 篠岡に借りて見てた。新人戦と秋大の対策しねーとな」
スコアブックを開いて見せると、へえ、と感嘆の息が二人から漏れた。
「篠岡、野球好きだよなあ」
「じゃなきゃマネジなんてできねーだろ。うちの親、昔マネージャーやってたみてーだけど、やっぱ大変だったって言ってたぜ」
ま、それ以上に楽しんでたみたいだけど、と花井は続ける。花井は親と仲いいよなあ、なんてひとしきりからかってから、栄口は言った。
「まあ、でも俺らも相当野球好きだよね」
しみじみとした口調に、阿部も花井も思わず吹き出した。
「あー、真夏のくっそ暑い中打って投げて捕って走ってって、すげーマゾだよな」
「な、しかも朝から夜までみっちり」
「いい加減飽きねーのかな」
「飽きないねえ」
一瞬会話が途切れたところで、阿部がため息を吐くように言った。
「野球してえなあ……」
声はすぐ夕日の中に溶けていったが、聞いていた二人の胸に染み込むようにして伝わった。うん、と栄口は静かに頷く。あせるなよ、と花井は阿部の背中を手のひらで軽く叩いた。
どんなに暑い中でだっていい。汗が目に入って沁みても、からからの喉が痛みを訴えても、息を吸い込むのも苦しいようなきつい練習だっていい。当たり前に動いていた体を、当たり前に動かして、もっともっとと、高みを目指して、野球をしたい。
自分の怪我の状態は頭に入っている。今、気持ちに任せて動かすのがどれほど愚かなことか、十分わかっているから、我慢するのは当たり前だ。慎重なリハビリが、結局は一番の近道なのは間違いない。
けれども、もどかしさと焦燥感で胸を焼かれるのだけは、どうしようもなかった。動きたいのに、動けない。言葉にしてしまえば単純なその事実は、身をもって体験してみると、予想以上につらい現実だった。
榛名も、こんな思いをしていたのか、と阿部は思った。阿部は、榛名がシニアのチームに来るまでの事情を詳しくは知らない。膝の故障から、治療とリハビリを余儀なくされ、それが終わったあとも、なぜだかチームに復帰することは叶わなかったのだ、と人づてに聞いた程度である。
中学の頃の自分は、榛名の故障の過去を知っていたが、想像の中の痛みでしか思いやることはできなかった、と阿部は思い返した。他人の痛みを感じることなどできはしないのだから当たり前なのだが、それでも、自分は榛名の痛みを軽く考えすぎていたのかもしれない。
ああ、違うな。
阿部はそれまでの思考を打ち消した。榛名がどうだ、ということまで頭になかった。あの頃の阿部にあったのは、ただ、榛名の球を捕りたい、とそれだけだった。榛名のそれまでを気にする余裕などなく、今、そこで阿部に向かって投げられる球を受け止めるので精一杯だったのだ。
食堂のすぐ手前までやってくると、がやがやとしたざわめきが扉越しに聞こえた。花井は、扉に手をかけて開くと、室内ではしゃぎまわる部員たちにむかって、こら、と声を上げる。
「お前らふざけてねーで、ちゃんと準備しろ!」
主将の声はなんだかんだと言って効果があるようで、皆、はーいと返事をして配膳を手伝い始めた。
開いた扉の隙間から、花井のあとに続いて食堂へと足を踏み入れながら、そういえばさ、と栄口が口を開く。
「武蔵野第一、勝ったんだってね。榛名さん、最後まで投げたって」
阿部は一拍遅れて返事をした。
「……へえ」
「良かったな、阿部」
人の良さそうな顔に笑みを浮かべてそう言う栄口に、阿部は戸惑った。
「良かったって、なにがだよ?」
武蔵野第一が勝ったこと、榛名が最後まで投げたことの、何が阿部にとって関係があると言うのだろう。怪訝な顔をする阿部に、栄口は屈託のない表情で答える。
「だって、阿部、もう榛名さんのこと最低の投手だ、なんて思わなくていいだろ。榛名さん、チームのために投げてるじゃん。最低なんかじゃないよ」
にっこり笑って告げられた言葉があまりに予想外で、阿部はどういう表情を作ることもできなかった。驚いたように目は見開かれ、困ったように眉尻は下がり、何かを堪えるように口元を引き結んでいる。顔のちぐはぐな動きは全て、そのまま阿部の動揺を示していた。
栄口の言葉に、阿部は回らない頭のままで、反射的に返していた。
「別に、俺は榛名がどうだろうと、関係ねエよ」
むきになったようにそう言う阿部に、栄口は一度は頷いて受け止めながら、しかしやんわりと否定した。
「でも、組んでた人のこと、最低って思うの、つらかったろ」
そう思い続けなきゃいけないのもさ。穏やかな声音で、栄口は続けた。
「だから、良かったなって思ったんだよ」
それだけ言うと、栄口は誰かに呼ばれて食堂の中へと走って行った。残された阿部は、入り口のところに立ったまま、動けないでいる。
俺は、つらかったのか?
阿部は自問した。榛名のことを最低だと切り捨てて、嫌いでいることが、つらかったのだろうか。
そんなことはない。榛名を嫌うのがつらかっただなんて栄口の想像は、馬鹿げている。だって、阿部が榛名を嫌うのには理由があった。無理をして嫌っていたわけではなく、自然な気持ちの流れだった。
榛名が、すごいやつだってのは認める。でも、どんなにすごい投手だからって、自分のためにしか投げない、チームメイトを練習道具にしか思っていないような、そんなやつを、エースとは認められない。俺は二度と組みたくない。
あふれるように、榛名を否定する言葉が出てくる。それこそが証拠だと阿部は思った。自分は、こんなに榛名を嫌いなのだと。