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玉木 たまえ
玉木 たまえ
novelistID. 21386
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あのひと(後)

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 その日は合宿終了日で、全員の体の疲れなどを考慮して、練習は午前中だけで切り上げられた。自由な時間が出来たからと言って、翌日からまたすぐ通常の練習が始まることを思えば、派手に遊ぶことは出来ない。開放されていた学校のプールで騒ぐくらいがせいぜいだった。
 けれども、季節は夏の真っ盛りで、元気を持て余しているような少年たちが寄り集まれば、カルキの臭いのする水面が落ち着くことなどないのだった。
「おい、一時間だけだからな! 今日は休めって意味で練習なくなったんだから……」
 言葉は途中で途切れ、代わりに大きな水しぶきの音が上がった。しっかり水着に着替えているのに、未だ説教くさいことをいう主将をいたずら者たちが水の中に引き込んだのだ。うっかり水を飲んでしまったらしい花井がげほげほとむせる音がして、そこから追いかけっこが始まる。真夏の光は、水面に反射して弾け散り、阿部の目を細めさせた。
 水泳は膝にさほど負担をかけないが、かといって他の部員たちのように動き回れるわけではない。代わりに、ビート板を両脇に挟んでぷかぷか浮かんでいると、おじいちゃんみたいだぞ、などと水谷がからかって言った。
 揺れる水に体をまかせているのは気持ちがよかった。耳の穴が丁度水面に接していて、浮かんだり沈んだりするたびに、音がこもったり、くっきり聞こえたりするのも楽しい。
 合宿の間に、地方大会の試合日程は全て終了していた。甲子園への出場が決まった高校は別として、それ以外の高校はすぐにでも迫った新人戦へ向けて準備を始めている。勿論、西浦高校も例外ではない。
 阿部の怪我の回復は順調に進んでいたが、やはり新人戦に参加するのは厳しそうだ、というのが監督の見方だった。その後に控えている秋大に万全の状態で臨めるように調整していく方針で、リハビリメニューを進めている。
 新人戦には、シードがない。一回戦でいきなり力のある高校とぶつかることもあり得る。例えば、この夏の大会で急激に伸びたその強さ見せ付けた武蔵野第一高校、とも。ベンチの中で、試合を見守ることしかできない自分を想像すると、背骨のあたりが、じり、と焦げるような感覚を覚えた。
 不意に、ぱしゃりと水を頬に受けて、阿部は水に預けていた体を起こした。
「え…へへ」
 すぐそばに三橋が立っていた。三橋は、眉を下げたいつものおかしな表情で、ためらいがちに笑っている。
「おう、なんだよ」
 阿部の言葉には応えずに、三橋は今度は先ほどよりも強く水をかけてきた。それで勢いづいたのか、ばしゃばしゃと遠慮なく阿部を水で襲う。
「てめ……!」
 やられたままで黙っている阿部ではない。お返しに三橋に向けて両手で大きく水をかいてやる。そこからはもうお互いに夢中だった。まるで小さな子どものように水をかけあっては、笑った。
 やがて、珍しいバッテリー対決を目にしたお調子ものたちが加わり、プールの中はルール無用の戦いでいくつも大きな水しぶきが上がった。高らかに上がった叫びや笑い声は、夏の空へと吸い込まれていく。
 その中で、騒ぎの発端となった三橋が、阿部を見て、よかった、と笑った。
「阿部くん、元気だっ……」
 それを聞いた阿部の顔は、一瞬へにゃりとゆがみそうになった。落ち込んでいた自覚はないし、そんなところを見せていたつもりもない。けれども、いつの間にか三橋に心配をかけていたようだ。それを思うと、自分が情けなく思えたが、それ以上になにか暖かなものが心に満ちていくように感じられた。ひたひたと押し寄せる暖かな波は、三橋の思いそのものだった。
「おう、元気だ、よっ」
 こみ上げるうれしさをどう表したらいいか分からなくて、阿部は照れ隠しのように、三橋に思い切り水をかけることしかできなかった。


 結局、すっかり疲れきるまでプールで遊んだ部員たちは、それ以上の寄り道を諦めて早々に帰途についた。阿部も本当ならばまっすぐ帰るべきなのだが、その日は病院に寄っていたために少し遅くなった。
 帰りは母が車で迎えに来ることになっている。弟のシュンを先に拾ってからこちらへ向かうため、阿部はお互いの中間地点に近いところまで歩いていき、待ち合わせることにした。母は、病院で待たせてもらえばいいじゃないの、と言うが、何もせずじっとしていることに飽き飽きしている阿部は、少しでも体を動かしたいのだった。
 その道はなんのへんてつもない道で、阿部は特に選んで歩いていたわけではなかった。埼玉の、どこにでもありそうな町の一角にすぎない。何一つ特別なことなどありはしないはずだった。
 けれども、降り注ぐ陽射しの暑さに、額の汗をぬぐおうと顔を上げたときだった。阿部は無意識のうちに息をのんで、道の先を見据えたまま、ぴたりと足を止めてしまった。
 白いシャツの群れの中で、すぐに分かったのは、なにも相手が長身だという理由だけではない。望むと望まざるとに関わらず、吸い寄せられるように見つけてしまうのだ。ぴかぴかと光る何かがそこにあれば、誰だって、おやと目を向けてしまうだろう。長い手足を伸びやかに動かして、制服の一群の中で彼はいた。まるで真昼でも光る星だった。
 足を止めたままそこにいれば、相手もまたこちらに気づいてしまうだろうということに阿部が思い至ったのは、もう随分彼らが近くにまで迫ってからだった。やべ、と短く呟いて踵を返そうとする。丁度その時、どういうタイミングの良さだろうか、それまですぐ隣の友人と話をしていた彼が、ふいと前を向いた。
 目じりの釣り上がった鋭い目は、はじめただ前方の景色を漠と捉えているだけだった。しかし、一瞬ののちに、その視界の中のたった一つに気がついて、見開かれる。阿部は、彼の視線の焦点が自分に合う音が聞こえるような錯覚を起こした。
「隆也!」
 声は力になって襲いかかる。気が付かれる前に立ち去ろうとしていた阿部の足は地面に縫い取られ、ずかずかと大股で近づく男をただ見返すことしかできない。突然大声を上げて、輪を抜けていった男を、それまで一緒にいた男の連れたちがあっけに取られたように見ている。
 ほとんど待つというほどの時間もなく、彼は阿部の目の前に到達した。大きな体の作る影が阿部の体を覆う。
「何してんだよ、こんなとこで」
 男はすっかり驚いた、という表情で尋ねた。
「お前んちって、こっちの方だっけ?」
 そう言って、まじまじと阿部を見つめる。阿部は決して、同じ年頃の少年たちと比べて小柄なわけではないが、それ以上に相手の体躯が良かった。男が阿部の顔をよく見ようとすれば、自然と身をかがめて覗き込むような体勢になる。
「おーい、聞いてっか」
 なかなか答えを返そうとしない阿部を不審に思ったのか、彼は重ねて尋ねる。
「……別に」
 低く答えて阿部は少しだけ後ずさった。二人の距離がひどく近くなっていることに気が付いたからである。
「別にじゃ答えになんねーだろ。お前はほんとに、口の利き方知らねエよなあ」
 呆れたような口調には、どこか面白がる響きが含まれている。昔からよく彼は阿部のことを生意気だ生意気だと言っていたが、態度そのものに腹を立てる事はあまりなかった。
「当ててやろっか」
作品名:あのひと(後) 作家名:玉木 たまえ