あのひと(後)
言うなり電話を切ろうとした榛名を押し止めて、阿部は、お互いの学校の中間地点に近い駅で待ち合わせることを提案した。その方が、ただ阿部が待っているだけよりも、合流までの時間が短くてすむ。阿部がそう説明すると、榛名は分かったと言って、今度こそ通話を切った。
約束の駅のホームに降りた阿部は、きょろきょろと頭をめぐらせた。それほど長いホームではないし、榛名は目立つので、いればすぐに分かるはずだ。
あの背の高い姿が見当たらないということは、阿部の方が先についたということだろうか。そう思った時、改札の向こう側から阿部を呼ぶ声が聞こえた。
「あ、そっちに出てたんですか」
言いながら、阿部も改札を通って駅を出る。
「早く着いたから、ちょっとコンビニ寄ってた。ほら」
榛名は二つ持っていたうちのペットボトルを投げて寄こした。珍しいこともあるものだ、シニアの頃はおごってもらうどころか、たかられることさえあったのに、と阿部が思い出していると、榛名が言った。
「150円なー」
そう言って、自分の分のキャップをあけてぐいぐいと飲み始める。
「なに、飲まねーの?」
「いや、期待した俺が馬鹿だったなーって」
「は?」
「手、出してください」
そう言って、財布を出して小銭を渡そうとすると、榛名は阿部の頭をこずいた。
「ばっか、本気にすんなよ。お前、冗談通じねーやつだな」
目をしばたたかせる阿部に、コーハイは素直におごられとけ、と言って榛名が歩き始める。阿部は、あんたのこれまでの行いが悪いせいだろ、紛らわしいんだよ、とぶつぶつ言いながら、その背中を追いかけた。
「どこ行くんすか」
「んー」
答えになっていない声を榛名が返した。けれども、それでいい、と阿部は思った。榛名の勝手に付き合うのが、実は少し好きだった自分を思い出したからだ。
しばらく歩くと、短い橋に差しかかった。その途中まで来たところで、榛名が振り返る。
「今日、なんで急に会おうって思ったん?」
「ああ、おかげさまで……っていうのも、変っすけど、うちの三橋と仲直りできたんで、そのお礼っていうか」
「ふーん」
榛名は阿部の答えを聞いて、また背を向けて歩きはじめた。その後ろ姿を見ながら、阿部は、ずっとこの背中が嫌いだった、と思った。榛名の背中は阿部を置いていくものだった。あの試合で、必死で頼んだにも関わらず、マウンドを降りていった時の姿が目に焼きついて、いつも胸を痛いほどに叩いていたのだ。
けれども、今は違う、と阿部は思った。この背中を、阿部は追いかけることができる。そうして、いつか乗り越えてやるのだと、そのために強くなるのだと、思うことができる。痛みではなく、榛名の背中は阿部の勇気だった。
「元希さん」
阿部の声に、榛名が振り返った。そこにいたのは、榛名元希だった。記憶の中の元希さん、でもなく、遠く感じた榛名でもない。
「俺、元希さんのこと、好きでした」
榛名元希は、世界を塗り替えるのに十分な男だった。そのことを、阿部はようやく思い出したのだった。榛名は、阿部が惚れ込まずにはいられない男だった。榛名で世界がいっぱいになった時の高揚を思い出した。あの時、阿部はうれしかったのだ。こんなにも自分を夢中にさせる投手と出会うことが出来て、うれしくてたまらなかったのだ。
「それって、告白?」
榛名が尋ねるので、阿部は笑って答えた。
「そうです」
言わずにしまいこんでいた気持ちを取り出して、伝えることができて、阿部はひどく満足していた。
うれしくて笑みをこぼれさせる阿部とは対象的に、榛名はとても不機嫌そうな顔をして、阿部の元まで戻ってきた。何をそんなに怒っているのだろう、と阿部が不思議になるほどに、榛名はすっかりつむじを曲げた表情になっている。
「今はどーなんだよ」
「は?」
「告白! 好きでした、じゃなくって、好きですって言えよ」
かんしゃくを起こした子どものように榛名は言った。阿部が戸惑ったままの顔で、口を開かないので、榛名は我慢が出来ないといった風に、ぐいと阿部を引き寄せて抱きしめた。
突然に、榛名の強い腕の中に閉じ込められた阿部は目を白黒させた。何をするんだ、と暴れても良かったはずなのに、そんなことをするのが思いつかなかったのは、触れた榛名の体が心地よかったからだ。
そのまま、榛名の作った囲いの中でじっとしていると、なあ、と焦れたように榛名が言った。
「なんですか」
「うん。あのさ、俺ら、もっと会おうぜ」
頭の上で榛名の声がするのがくすぐったかった。阿部が少し体をもぞつかせると、抵抗していると思ったのか、抱きしめる榛名の腕が強くなる。
「会ってるじゃないですか、今」
「だから、もっと!」
阿部は考えた。これからも、こんな風に部活のあとや、休みの日などに、榛名と会う、という未来について、思いを巡らせてみた。
どういうことになるのか分からない。もしかしたら、またシニアの頃のように、すれ違って、二度と会いたくない、なんて気持ちになるかもしれない。そうではなくて、例えば、榛名が先ほどねだったような、告白の言葉を、今の榛名に告げたくなるかもしれない。
ただひとつはっきりしているのは、榛名がまた阿部の世界を新しい色で塗り替えようとしていることだった。そうして、それをうれしいと思う自分がいることだった。
「いいですね」
阿部はそっと言った。
「俺も、もっと、たくさん、会いたいです」
微笑んで言う阿部に、榛名は弾けるような笑みを見せた。阿部の記憶の中のいつかの笑顔と、今の榛名の顔が重なり、ひとつになる。とうとうたどり着いた、と阿部は思った。ずっと会いたかった、阿部の大好きな、あのひと。