この感情に名を付けるなら
「甘かったですか?」
「ん? いや、しょっぱかった」
「あ、今日体育あったから…。ごめんなさい、お風呂入ってからにすればよかったですね」
「風呂入ったら、匂いも消えちまうだろ」
「そんなに気に入ったんですか? スーパーでも売ってたと思うんで、じゃあ今度持ってきますね」
「それって甘いのか?」
「匂いだけですよ。舐めたら苦かったです」
「お前も舐めてんじゃねぇか」
第三者が聞けばツッコミどころ満載な会話だ。が、当事者2人は顔を見合わせて吹き出した。互いに匂いを嗅ぎあって、じゃれついて、なんだかそれがおかしかったのだ。
「静雄さんって、時々本当に犬みたいですよね」
このくらいなら怒られないだろうと笑いながら静雄の髪をかき混ぜると、整った眉がわずかにハの字に下げられた。が、覗き込む目は穏やかに和いでいる。
「舐めたり噛んだり、時々じゃれたり、それって大人の男性が高校生にすることじゃないですよ、普通」
「そうか? 赤ん坊とか子供とか、食っちまうんじゃねえかってくらい猫っ可愛がりしてる親なんか、腐るほどいるじゃねぇか」
「静雄さんが親で、僕が子供なんですか? そういえば、ま、…友人は『新妻みたい』って言ってましたけどね、静雄さんのこと」
甲斐甲斐しいですもん、と続けると、さすがに憮然とした表情で軽く額を小突かれた。どう加減しているのかはわからないが、全然痛くない。
「じゃあお前が『亭主』かよ?」
「うーん? でも、静雄さんの食費を支える経済力はまだちょっと…、てことは僕、『ダメ夫』なんですかね」
「『嫁』も無理だろ、お前には。料理の腕がアレじゃあな…」
「料理出来ない女の人だっていっぱいいるじゃないですか!」
「お前のは出来ないってレベルじゃねぇだろ。飯は俺が作るから、お前は大人しく食うだけにしとけ」
「ええ!? それはなんだかずるい気がします…」
料理の件は置いておくにしても、静雄に甘えすぎているのではないかと帝人は常々思っている。彼は大人で、自分は子供で、対等で在りたいというのはおこがましいとしても、せめて足を引っ張るようなことだけはしたくないのだ。
そんなことをとつとつと言えば、色素の薄い目が大きく見開かれた。驚いた表情のままこてんと首を傾げる様子がなんだか可愛らしい。
「違うだろ? 俺が、お前を甘やかしてんだよ。自分からは甘えて来ねぇしな、お前」
「そんなことないですよ。静雄さんの好意に、全力で寄りかかってます」
「足りねぇよ。もっと、もっと甘えろよ…」
くるりと身体を返されて、帝人は背中から抱きしめる腕にそっと体重を預けた。頭の上に顎を乗せられて、やっぱり子供扱いなのかなぁとこっそり溜め息を吐く。耳朶を甘噛みされて思わず身をすくめた。濡れた音が耳を打つのが、なんとなく恥ずかしい。
「静雄さん…?」
顔を見ようと身動ぐと、静雄がかぷりと首元を食んだ。やわやわと噛みつき、吸い上げられる感覚がなんだかくすぐったい。
甘えて来いと言っておきながら、これではまるで静雄の方が帝人に甘えているようだ。―――そう思うと胸が熱くなった。静雄が自分に甘えてくれているのだと、気を許してくれているのだと思うとすごく嬉しい。
「大好きですよ、静雄さん」
感情のままそう告げると、首元にまとわりついていた顔がまじまじと帝人を見た。さぐるようなそれに笑顔を向けると、白い頬にほんのりと朱が広がっていく。柔らかな視線が帝人を射て、幸せそうな表情になぜだか泣きたくなった。
「僕の方が年下ですけど、…友達でいていいんですよね?」
「当たり前だろ」
「これからも一緒にいてくださいね」
「ああ」
友達だろ、と笑う顔が本当にきれいで、だからなるべく愛想を尽かされないようにしよう、と帝人は密かに決心をする。
同じことを、静雄もまた考えているとは露ほども知らずに。
「じゃあ、取り敢えず僕は料理を頑張ります!」
「……いや、それは頑張らなくていい」
「甘えろって言ったじゃないですか」
「むしろそこは諦めろ」
「えええ!!?」
顔を見合わせ、軽口を叩き合って、笑う。こんな日がいつまでも続けばいいと、互いにそう願いながら。
週明けの平日、親友の首に鮮やかな噛み跡を見つけた正臣が色々なものを涙とともに諦め、それを聞いたトムが後輩に『青少年保護条例』を粛々と語って聞かせるのは、また別の話である。
作品名:この感情に名を付けるなら 作家名:坊。