この感情に名を付けるなら
残りの半分以上を静雄の口に運びこんで、そういえば、と帝人は鞄の中からケーキの包みを取り出した。
「これ、今日家庭科の実習で作ったんです」
「え? お前が作ったのか?」
「同じものをみんなで食べてるんで、味は大丈夫だと思うんですけど」
「へぇ…」
実習は班ごとで、材料は学校側が用意する。だから帝人は、自分用にこっそり材料を持ち込み授業中に一緒にもう1本焼いておいた。女子が、やはり菓子の調理実習でよく使う手らしく、授業に滞りさえなければ教師も多めに見てくれるらしい。
包みを解いて丸々渡すと、静雄が大雑把に手で割ってぱくりと齧りつく。
「ん、美味い。…あ、なんか入ってる」
「バナナのパウンドケーキです」
実習用のレシピでは乾燥バナナを砕いて入れることになっていたのだが、生の方が絶対美味しいよと同じ班の美香が持ち込んでいたバナナをわけてくれて、静雄の分にはそちらを使った。美香の作った『自分用』は今頃誠二の腹に消えているのだろう。
食感がやや心配だったが、静雄はあっという間に、でも美味しそうに全部たいらげてしまった。相変わらず豪快だなぁと見ていると、ごちそうさま、と手を合わせて、怪訝そうな顔を帝人に向ける。
「お前、こういうのは普通に作れんのに、なんで料理はダメなんだ?」
「ダメっていうか、…練習すればそのうち上手くなると思うんですけど」
「いや、無理だ。諦めろ」
「ええっ!? ちょ、それは酷いです静雄さん」
「酷くねぇよ、事実だろ」
以前、静雄の帰りが遅い時に帝人はカレーを作った事があった。正確には、『カレーになるはずだったもの』を。
箱を見ながら具財を調理し、分量通りにルーを入れたら水っぽくなってしまって、仕方なく煮詰めたらなんだか苦くなって、砂糖を足していたら甘くなりすぎて、塩を入れたら辛くなって、焦げてきたので水を足して、…というのを何度か繰り返していたらいつの間にか『食べれないもの』になっていたのだ。無理をすれば食べれなくはない、けれども食べれば確実に身体と精神によろしくないという、そんな味に。
カレーなんて誰にでも作れるものだと、静雄も、帝人自身も思っていたから、出来上がったどうしようもないものには2人して本当に驚いた。食べ物しか入れてないのに食べれない物って出来るんだ…、と心底実感した瞬間でもある。
ついでに思いきり鍋を焦がして、以後帝人は全く料理をさせて貰えない。リベンジを、と思うのに、包丁にすら触らせてくれない。
もっとも、これについては静雄にも言い分がある。
レタスを切っている最中に包丁をすべらせたり、ピーラーで人参の皮と一緒に爪を削いでしまったり、焼けた魚を取り出そうと素手のままグリルに触ろうとしたり、帝人にとっては記憶にも残らないらしい『些細な失敗』にハラハラしながら調理するくらいなら、いいから横で宿題でもしていてくれと、そう思っても責められないはずだ。
気分は『手伝いたがる子供をあやす親』だろうか。年の離れた弟か従弟でもいい。が、とにかく静雄が『この家では帝人に一切料理をさせない』と決めたのは、ずいぶん早い時期だった。以後、料理は全て静雄が作っている。
正臣が『壊滅的』と称する所以だ。が、こと菓子作りに関しては、帝人の方が静雄より格段に上手い。
「こっちの方が、難しそうな気がすんだけどな?」
「いえ、お菓子作りってきっちり分量測って作るから、そう簡単には失敗しないですよ」
「あー…、俺はそういうの苦手だからなぁ」
「料理の方が難しいです。『適量』とか『少々』って、それがわかんないからレシピ見てるのに、具体的に書いてる本ってホントにないんですもん」
ああなるほど…?、と首を傾げる静雄に、帝人は、むう、と唇を尖らせた。覆うもののない目が柔らかく眇められて、伸びてきた手がゆるく頬を引っ張る。子ども扱いされているのがちょっと悔しくて、意趣返しも兼ねて帝人は静雄の髪に手を伸ばした。柔らかな金糸に指を差し込むと、すり抜けていく感触が気持ちいい。
飽きずに撫で続けるが、静雄は特に怒るでも嫌がるでもない。苦笑よりもう少し穏やかな笑みを浮かべていて、だから帝人はもう一歩踏み込んでみた。
机越しに触れていたのを、膝立ちですぐ横に回りこんで両手でそっと頭をはさむ。静雄はあぐらをかいたままで、不思議そうに見上げる顔はちょうど帝人の胸の辺りだ。えい、と引き寄せて抱きこむと、そのまま柔らかな髪に頬を寄せる。目を閉じるとその毛並みが大型犬のそれに思えなくもなくて、犬のお腹に顔を埋めるのってこんな感じかな、と帝人は顔をすりつけた。イメージはもちろん、ゴールデンレトリバーだ。
ふと煙草の匂いがして、髪にまで染み付いてるんだと頬に触れるそれをひと房つまむ。あとでお風呂で洗ってあげようと思いつつしっかりその毛並みを堪能して、名残り惜しげに身体を離した。乱れた髪を撫で付けてふと見ると、犬扱いされたことに気付いているのかいないのか、静雄がじっと帝人を見上げている。
「すみません、ちょっとやってみたくなっちゃって」
「そりゃ別にいいけどよ。煙草臭いんじゃねぇか?」
「あ、それ、思いました。臭いとかじゃないですけど、やっぱり匂いって髪に移っちゃうんですね」
「吸う本数が多いからな」
くい、と今度は静雄の手が帝人を引き寄せて、なすすべもなく広い胸に倒れ込む。先程とちょうど正反対の格好になって、静雄が帝人の髪に鼻を寄せた。
「お前は、なんか美味そうなにおいがする」
「それってバニラエッセンスじゃないですか? 調理実習のクッキーに入れたんですよ」
「食ったら甘そうだな…」
「うーん? いや、さすがに味はしないと思うんですけど」
そう言っているのに、静雄は帝人を抱きしめたまま首の辺りに顔を埋めている。ふわふわと掠める髪がくすぐったい、…と思っていたらぺろりと首を舐められた。
「ひゃっ」
「あ、悪い」
謝罪の言葉を口にしつつも、静雄の唇はまだそこから離れようとはしない。舐めたり、ちょっと歯を立ててみたりするのがくすぐったかったが、帝人はそれを退けようとは思わなかった。なんだか大型犬に懐かれてるみたいだなぁ、とどこか暢気に考える。
正臣が見れば「だからお前は危機感が…!(以下略)」と言いそうな状況だが、帝人にはその『危機感』の意味が今ひとつわからない。確かにこのまま首を噛みちぎられでもすれば危険極まりないだろうが、静雄はそんなことは絶対しない、という自信がある。だからしたいようにさせていて、首や肩を甘噛みしている静雄が満足して顔を上げるまで、帝人は広い胸に寄りかかったまま指先で柔らかい毛並みを弄んでいた。
作品名:この感情に名を付けるなら 作家名:坊。