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白から黒へ 【BASARA 長市】

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目が覚めたとき、長政は白に囲まれた場所に横たわっていた。
 そこがどこなのか、それはわからない。ただ、場所もわからぬ白いその場で、たった一人、目を覚ました。

―ここは一体、どこなのだろうか

 小さく呟いた声は、不思議なことに音にはならなかった。まるで白い色に吸い込まれるようにして、口から発せられるとすぐさま、長政の耳にも届かぬ速さで消え失せてしまう。
 何も聞こえず、何も見えない。そんな辺りを見渡しながら身体を起こすと、長政はまだぼんやりとする頭を軽く振りながら、その場に立ち上がり始める。そして、何かを捜し求めるようにして、一歩、また一歩と歩みを始めた。
 そうしてどれくらい歩き進めただろうか。不意に、視線の遥か先に、小さな黒点のようなものが見え始めたのだ。
 この白い場所で、それまで色の付いているのは長政だけだった。しかし今目の前には、それとはまた別の、白以外の色が見える。
 そのことに気が付くと同時に、長政の足が自然と、その黒点を目指すようにして速度を上げ始めた。

―早く……早く行かなくては

 どうしてだろうか。そんな声が、頭に響くのが聞こえてくる。
 声の主は、生まれたときから聞きなれた、自分自身の声。けれども、長政はそのとき、一切口など開いてすらいなかった。

―早くしなければ、あ奴が……

 頭に響くその声は、酷く焦っているようにすら聞こえる。
 一体何を焦っているのか、あ奴とは誰なのか、そんなこともわからずに、ただ足が赴くまま歩き続ける長政。
 そして、気付いたときには、焦燥に駆られるようにしてその場から駆け出してしまっていたのだった。
 長政が前へと進んでいくたびに、小さかった黒点は、その大きさを増していく。針穴のような小ささから、団子ほどの大きさへ。そして長政が息を切らせる頃には、その黒点は、自分の背丈よりも大きな円へと姿を変えていた。

 そして、気が付く。
 何故自分が、これほどまでに急いで黒点を目指していたのかということを。

「……市……」

 先ほどまでは、発した声は音にならずに消えていくだけ。しかし今、口に出したその名前は、消えることなくはっきりと、長政の耳へと聞こえてくるではないか。
 そのことを噛み締めながら、長政が更に一歩、前へと歩みを進めていく。
 目の前に映し出される、大きく広がった黒点。そこに映し出された光景に、まるで引き寄せられるかのようにして……


 崩れ落ちた城の中、憔悴しきった兵達が、破れた旗を掲げて何かを黙って見下ろしている。正気を失ったような目の者、歓喜に満ちた瞳を持つ者など、その者たちの表情は様々だ。
 しかし、そんな違いはあろうとも、誰一人として視線を外すことなくただ一点を眺め見ている。その様は少々異様とも取れるが、この崩れ落ちた城の中では、そうした異様さが寧ろ正しいかのようにさえ思えてしまうのだから不思議なものだ。
 誰もが皆、声も出さずに立ち尽くしている中。一人の兵士が、消え入るかのような小さな声で、ある言葉を口にし始める。

―だいごてん……まおう……

 すると、その声に反応するようにして、周りに居た兵達もまた、その兵と同じ言葉を口にし始めた。始めはおぼろげな声だったものの、次第にはっきりとした力の篭った声で。

 第五天魔王、と。

 水面に落ちる雫のようにして、その言葉が静寂の場に波紋を広げていく。今や、声を失っているものなど、誰も居なかった。
 たった一人、彼らの視線の先に居る人物を除いては。

「市……そこに居るのか?」

 彼らの視線が向けられている先。その場所に、一人の女が力なく座り込んでいた。
 長い髪を床一面に広げ、月明かりに照らされた肌は、まるで病的なほどの白さを持っている。そして、顔を上げて空に浮かんだ月を見上げては、深い闇色の瞳から、一つ、また一つと涙を零していた。
 それは、紛れも無く長政が求めていた人物の姿。織田信長の妹であり、長政の妻でもある市が、そこには居たのだ。
 黒点の中、長政の見ている目の前で、静かに涙を零している市。そして小さく、声すら漏らさないような力の無い動きで、ゆっくりとその唇を動かし始める。
 歓喜に震える兵達は、きっとそうした市の動きに気が付いてすらいないのだろう。しかし長政には、そうした市の唇の動きが、何を口にしようとしているのか、それがはっきりとわかってしまった。

 長政様、と。そう、市は口にしていたのだ。

 それがわかった瞬間、長政の胸のうちにある感情が湧き上がり始め、手のひらを胸に当てると、そのまま強く衣を握り締めた。
 流れる涙を拭ってやりたい、そっと抱きしめてやりたい。市を悲しませる全てのものから、その身を守ってやりたい。
 けれど同時に、それが叶わぬことであることを思い出し、口惜しげに表情を歪めると、市の姿を眺め見たままで、握り締めた手のひらへと更に強く力を込める。

 もう守ってやることなど、出来ないのだ。
 なぜなら、長政は既に、この世での生を終えてしまっているのだから。

「泣くな……泣くんじゃない……市」

 掛ける言葉は市には届かず、空しくあたりに消え失せていく。
 こんなにも側に居るのに、手を伸ばせば届くほど近くに居るのに、最早声すら届くことは無い。悲しんでいるその身体を抱きしめ、ただ一言、大丈夫だと言葉を掛けてやることすら出来ない。
 そのことがこんなにも辛く、そして苦しいことだなどと、生きているときには思いもしなかった。
 何も出来ない己を呪い、長政が歯を噛み締めると共に強く瞼を閉じていく。何度も、何度も、胸の内で強く市の名前を呼び続けながら。

―……側に在りたいのか、長政?

 そんなとき、ふと、長政の耳へと何かの声が聞こえてきた。
 それは、義兄である信長の声にも聞こえる気がしたが、それとは全く違う、別の男の声であるようにも聞こえる。複数の人の声が重なり合ったかのような、そうした少々珍妙な、けれどもはっきりとした男達の声。
 その声を耳にした長政が閉じていた瞼を開いたとき、それまで白一色で染め上げられていたその場所が、何故か白とは真逆の黒一色に染め上げられていた。
 そして、辺りの光景を不思議に思う暇も与えないほどの速さで、その黒色が長政の身体を同じ色へと染め上げていく。腕の先から、足先から、全てを取り込むかのようにして……