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白から黒へ 【BASARA 長市】

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 焼け落ちた本能寺。その瓦礫の中で、敗れた旗を掲げた織田の残党たちが、信長の妹である市を囲んで歓喜の声を上げていた。
 織田の再興を求め、信長の妹である市を第五天と祀り上げながら。
 けれども、そうした兵達の中にいても、市はまるでその場に居ないかのような虚ろな表情で、ただ月を見上げているだけ。決して声を返すことも、視線を向けることもしようとはしなかった。
 それもそのはず。市は、全てを忘れてしまっていたのだ。
 辛うじて自分の名前が"市"であるということは判るものの、それ以外のことはほとんど忘れてしまっている。
 時折、何かのきっかけで思い出すことはあるものの、そのことを深く考えたりすることも出来ない。まるで、考えることを忘れた人形のようにして、ただその場に居るだけという状態だ。
 それでも時折、市の意志とは関係無しに、唇が何かを伝えようとするかのようにして動き始める。一文字、一文字、ゆっくりとした動作で。
 そして、何度目になるかわからない、そうした唇の動きを感じたときのこと。
 突如、市の周りを取り囲むようにして、地面から無数の黒い手が伸び始めた。
 突然のことに、それまで歓喜の声を上げていた兵達が、一斉にどよめき始める。そして、その黒い手から逃れるようにして後ろに下がると、やや離れた位置から、市とその黒い手の様子を眺め見始めた。
 そんな兵へと視線を送ることもせず、市が静かに黒い手を見回していく。そして、その中の一本の手が市の頬をそっと撫でたときのこと。

「……市のこと、守ってくれるの?」

 それまで声を発することさえ無かった市が、そう黒い手へと向かい問い掛けの言葉を口にした。
 すると、その問いに答えるようにして、黒い手達が動き始める。そして、その中の数本の手が市へと近付いていくと、とても優しい動きで、市の身体を抱きしめ始めた。
 そうした腕に身を任せながら、市が静かに瞼を閉じていく。その際、瞳に溜まっていた涙が一筋頬を伝ったが、頬に触れていた黒い手がそれを拭ったために、地面へと雫が落ちることは無かった。
 市の輪郭をなぞるように指を這わせ、その指先で赤い唇を優しく撫でる。愛しむように、慈しむように。
 これ以上泣かなくても良いんだと、そう告げるようにして。

 月明かりの下、無数の黒き手に囲まれるお市。その姿は、妖艶なまでに美しくもあったが、まるで死者の群れが回りを囲んでいるかのようなその場で、恐れることすらしないということが、同時に酷く恐ろしい姿のようにも見えた。
 そんな市の姿を眺め、始めはどよめいていた兵たちが、次第に歓喜の声を取り戻し始める。
 しかし、その声が市へと届くことは無い。何故なら、そうした声は市にとって、木の葉のざわめきにも等しいものでしかなかったのだから。

―どうしてだろう。市、この手を知っている気がする……

 自分を抱きしめる黒い手にそっと指を這わせながら、ぼんやりと市がそんなことを考え始める。
 温かくて、優しくて、いつだって市のことを守ってくれた大きな手。そんな手を持つ人が、随分前に市の側に居てくれたような気がした。

―でも、思い出せない。思い出せないよ……

 思い出そうとしても、頭に靄でも掛かったかのようにして、何も頭に思い浮かべることが出来ない。とても大切だったはずなのに、それが誰かすら最早わからない。
 もどかしくて、悲しくて、ほんのちょっとの苛立ちが市の胸に浮かび上がる。そして、まるで甘えるかのような仕草で黒い手に頬を摺り寄せると、その瞳から再び、涙を一筋零していった。

 黒い手の群れにその身を抱かれ、静かに涙を零し続ける市。そんな彼女のすぐ側で、崩れた城の瓦礫が落ちる音や木の葉が風に舞う音、そして兵たちの歓喜の声に混ざって、どこからともなく男の声が聞こえてくる。

―……泣くんじゃない、市……

 誰の耳にも届かない、そうした小さな囁き声が……


-終-