聞かせろよ
3
練習室に先に入る背中を見つつ、月森は何故こんなことになっているのかと溜息をつきたい気分でいた。だが、実際漏らしてしまうことはなく、五歩程後ろを歩いて、遅れて部屋に入った。
「普段、あまり練習棟には来ないんだな」
「ああ?」
「昨日ここで会ったのは、珍しいと言ったんだ」
ピアノを開いて準備する土浦に声を掛けながら、月森もヴァイオリンをケースから取り出し、弦を調節した。
「普段は家で練習してるんだが、今は母親のピアノ教室の発表会があるらしくて、夕方ピアノを使わせてもらえねえんだ」
「ピアノ教室か」
「お前の母親のこと言ったら、すげえ喜んでたぜ。元々、母親が好きだった所為で俺もCDを聞き始めたからな」
「だからか?」
「何が?」
「だから俺に、関わろうとしているのか?」
すいとヴァイオリンを構えた月森は、親の話題に不機嫌さを露わにした。わかっていても、両親の影はまとわりついてくる。両親の音楽に憧れるからこそ、余計に月森の感情は波立った。
土浦も同じ目で見てくるのかと思うと、心に影が落ちた。
「お前、やっぱり捻くれてんのな」
「質問に答えないのか?」
土浦は髪を掻き混ぜ、ピアノの鍵盤を柔らかく叩いた。
「お前の演奏は、別もんだ。随分気にしているようだが。……いや、気にするのは当然だろうが、俺を他の連中と一緒にするんじゃねえ」
「俺は、まだ彼らの演奏に、及ばない」
「同じもの、目指してるわけじゃないだろう?お前はお前の音を探せばいい」
「楽天家だな、君は」
「堅苦しく考えるのが面倒なだけだ」
気が緩んでは、張る。土浦を目の前にしていると、月森の感情は揺れて揺れてどうしようもなくなる。他人を近くに入れないはずの月森の懐に、容易く入り込んでくるのは、彼の性格ゆえだろう。
どうでもいい相手ならば、わざわざ突っかかったりもしない。何かしら発言してしまうのは、認めたくはないが土浦を意識している証拠だった。
「君の長所だな」
「お前が面倒に考えているだけだと思うぜ?」
「……そうかも、しれないな。曲はどうする?」
会話を切り上げて、月森も軽く音を出した。
「お前に合わせる」
「では、別れの曲を」
「いいぜ」
少し驚いたようにしたが、土浦はすぐに笑って、いつものように手首を回した。
別れの曲は、初めて土浦のピアノを聞いた曲だ。即興の伴奏だったが、土浦の実力を逆に証明していた。
「何も言わないんだな」
「お前がどう弾くか、興味あるだけだ」
「日野さんのようには弾けないぞ」
「同じのが欲しいんじゃないってさっきも言ったろう?本当に、頭の固い奴だな」
「言われなくてもわかっている」
「よっしゃ。じゃあ軽くあわせるか」
「ああ」
思い出すのは、鮮明な音。
伸びやかな音は哀愁を彷徨わせ、月森は第一セレクションで聞いてから個人的に弾きこんだ曲目を、滑らかに演奏した。
同じテーマを出されていたのなら、この演奏では評価は貰えないだろう。月森は自覚しながら、自分なりの解釈で別れの曲を弾き続けた。土浦のピアノが想像以上にぴたりとはまり、次の音への弾みになる。
ゆるやかな主旋律は、演奏者の心をかき乱す。高まりに合わせ、気持ちも昇りきり、音は終わりに向け、ふつりと消えた。
「この曲で来るとは思わなかったな」
演奏の余韻に浸っていた月森は、土浦の声で現実に引き戻された。
「君のピアノを、初めて聴いた曲だ」
「あの時はいきなりだったからな。でも今の、良かったな」
「君が、俺に合わせてくれたからだろう?」
「相変わらず自分に厳しい奴だな」
「今更君に言われなくても、知っている。……この旋律は、あの日からずっと耳に残って、離れない」
「好きな曲だからな」
「好きな、曲?」
土浦はそう、と笑って今度はピアノだけで別れの曲をゆっくり弾き始めた。感情を篭めた悲しい旋律は、名の通り別れを色濃く表現していた。
月森は次第に、音に引き込まれていった。
大きな手によって奏でられる繊細な音色。技術ばかりに頼らず、むしろ感情を表に出した演奏は、聴くものの心を激しく揺さぶる。
腹の奥に音が届き、月森の中に蓄積されていくようだ。
それが不快ではなく、月森はピアノの傍に立ち尽くしながら土浦のピアノ演奏に聴き入った。優しい音楽は、月森をいざなってくれる。
涙が自然と零れたのは、感極まったからで、音が不自然に止まるまで、月森自身も気付けずにいた。
「月森?」
土浦の声は驚きでひっくり返っていた。間抜けな声を出してどうしたのかと思うと同時に、自分が涙を流していたことに月森は気付いた。
「……すまない」
「大丈夫か」
「なんでもない。続けてくれ」
「続けられねえだろ。いや、感動してくれてんのなら嬉しいが……」
「聞かせてくれ、最後まで」
最後まで聞いていたい。月森は涙を拭い、強い口調で求めた。
そして、再開されたメロディに身を任せた。必ずしも完成しきっていない音だが、心動かされるのは確かだ。
だが、一度途切れてからの演奏は、音色の質が明らかに変わっていた。
月森はその僅かな変化さえ心地良く、曲が終わるまでただ耳を傾けていた。