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棄てゆくものを

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 まざまざと見せつけられた変化を思い起こす家康の背後に、三ツ足の大鴉が優雅に舞い降りた。
「待たせたな、徳川」
「――孫市!無事だったか。あんまり遅いので心配したぞ」
 途端に安堵を露わにする家康を見て、孫市は口の端に余裕の笑みを刻みながら平然と答えた。
「そう急くな。怒れる刃の矛先を煙に巻いて逸らしてきた」
「あの、三成にか。やはりお前たちは大したものだな……、三成の怒った顔が眼に浮かぶ」
 朗らかな声音で讃えた家康を横目で眺め、雑賀の頭領である女傑は呟いた。
「あれが、そんなに優しい顔か?」
 あえて軽く答えたはずの家康は、それを捕えられて言葉に詰まった。
「……小田原攻めの時とは似て非なる、別人のようだ」
 孫市は特に感慨がある風でもなく、事実を事実として淡々と述べる様子だった。傭兵の長としてはあまりに美しく、しかしこの上なく相応しい風格を備えた女は家康を見て告げる。
「変えたのはお前なのだな」
「……ああ」
「あれは、お前の道に邪魔なのだろう」
「……ああ、そうだ」
 家康は端的に答えてその眼を見返す。孫市は続けて問う。
「憎まないのか」
 家康は静かに孫市を見つめたまま、小さく首を振った。
「それは、別だ」
「……人心はわかりやすい象徴へ集まる。あれが掲げるのは主君の仇討ちと忠節、憎むべきは東の徳川と声高に言い張るだろう。ならばお前もまた悪しきは西と宣言するべきではないのか。
 なぜそんなに凪いだ眼をする」
 家康は、仄かに笑みすら浮かべて孫市を見つめたままだ。そして何も答えなかった。孫市はそうと悟るとわずかに首を振る。鮮やかな色合いの髪が揺れた。
「……ふ。余計な口出しをしたな。いいだろう、我らはお前と契約し、お前の刃となりお前の力そのものとなった。お前の進む道を往くが良い」
「ああ、…ありがとう」
「お前と石田の動きに眼を光らせるものは多い。疾く動くことを奨める。北から南までざわめいているぞ」
「雑賀の情報網か……心強いな」
 家康が感心して頷くと、孫市はやや眉をひそめ、形の良い唇から不穏を零した。
「特に、西の海が騒々しいのだ……」
 その眼に浮かんだ色が、家康に何かを指し示す。暗に示された、互いに共通した知己を思い浮かべた途端、家康は身を乗り出す勢いで食いついた。
「西の、……元親か!」
 自然と明るい色を差した声音で、懐かしい友の名を呼ぶ。
 対する孫市は無言であったが、交わす目線に潜んだ憂慮に、家康もまた表情を厳しくした。
「何か、あったのか――知っているのか、孫市」
 家康の真摯な表情を、そこに浮かんだ友を案じる色を慎重に読み取った孫市は、自分の持つ情報のひとつを偽りであると断じた。
 四国壊滅に徳川の影あり、との情報に。
「我らは我らの誇りにかけて、不確定な情報を口にはしない――が、……」
 珍しくも逡巡を浮かべた雑賀の頭領をしばし見つめた後に、家康は改まった声をかけた。
「気にかけているんだな?孫市……ならば口にしなくても良い、ただ、……そこに不穏があるのなら、元親の手助けをしてくれないか」
「我らが契約したのはお前だ」
 知己であるが故の情で口にした、と思われては堪らないと言いたげに、孫市は鋭い声で返した。家康はその矜持を秘めた顔を見つめて、言い換える。
「ならばこう言おう。ワシのために、お前が気にかけるその“何か”を晴らしてきてくれ」
 曖昧な表現に訝しげな眼を向けた孫市に、家康は重ねて言った。
「西へ向かってくれ、雑賀の主。お前の引っかかるものが無意味とは思えない」
 無意味ではないことは、既に孫市は承知していた。西の海の動きは、不穏だ。そしてそれは確かにこの男にも繋がっている。
「何をしろと言うのだ」
 家康はちょっと驚いたという風な表情をすると、悪戯めいた色を閃かせて笑った。
「何でも。好きなように動いてくれ。命令がなければ動けない――雑賀はそんな集まりではなかったはずだな?……そうだな、あえて言うなら、“ワシの力になってくれ”」
 そのための判断も行動も、総てを一任すると断言した東の将に、孫市は不敵に笑った。
「調子に乗るな、徳川。――だが我らの動かし方としては上々だ。
了解した。これより先、お前の道の妨げとなろうものがあるならば、我らはそれをすべて焙り出してみせよう」
 まったく、からすは手間がかかる。西海を束ねる昔馴染みを思い浮かべながら呟いた次の瞬間には、孫市は無数の影と共に飛び去っていた。

 その影を見送った後、家康は心のうちでそっと呟く。
 日ノ本すべてが動き出すぞ、三成。
 ワシとお前はそんな場所に辿り着いてしまった。
 そうして憎悪を浮かべた幽鬼の顔を思い、ふと家康は噛みしめるような笑みを刻んだ。
「……ワシは、お前にゆるされていたのだな……三成……」
 変わり果てた姿を見たからこそ思い知った事実を、家康は揺れる声音で口にした。
 初めて戦場で見た時にはまるで、何の感情も持たない獣のようにも思えた男。一皮捲ればそこに隠れていたのは、驚くほど一途な忠誠を抱えた、人を竦ませるほど潔癖で、不器用なほど率直で、何ら飾り気のないような、凛として立つ唯一人の男だった。
 それが確かに共に過ごしたあの日々で、硬い蕾が開いてゆくようにして、家康が隣にあることをゆるしていたのだと。あの頃の家康は、もっともっととさらにねだって手を伸ばすばかりで、三成がどれほどの許容を家康に見せていたのかわかっていなかった。
 背中合わせに佇んでいた、その意味を。
「お前は、ワシの傍にいたのだなあ……」
 そしてそれを喪ったのだと思い知る。
 三成は自分を赦すまい。決して、二度と、赦すまい。
「そうだ……お前はワシを憎んでいる……」
 殺したい程に、つよく。
「ふ。……ふ……」
 軍師は亡く、覇王も亡く、雑賀は去り、三成はいない。
 だから家康は、自嘲の笑みをわずかに零し、これが最後と定めて俯いた。

 秀吉公の御為に。
 お前は躊躇わないだろう、恐れないだろう。己の死すら厭わずに、心を削り身体を苛み、ひたすらにこの身を追うのだろう。
 その末にこの拳が今度こそ、お前に残ったお前自身すら奪うだろうか。

 あの男の隣で小さな子供のように素直に怯えられた日は遠く、遠く。
 家康の選んだ道はもう、それを恐ろしがることを許さない。

 
作品名:棄てゆくものを 作家名:karo